クォ・ヴァディス 24

4-12

 事件の後始末をアクセルに委ねて、アカギはエルフの神木に戻っていた。
 アクセルたちは、過激派に監禁されていた穏健派の島民たちの救出に当たっている。
 エルフの神木に入りきらなかった島民たちは、自宅に押し込められ、窓や扉を強固に閉じられて、ほぼ密室と言っていい空間に四週間も取り残されていたのだ。
 過激派から食料などの差し入れなどがあったわけでもなく、その「救出活動」も、凄惨を極めているらしい。
 被害の数字が確定するのは、アカギたちがナ・ナルを離れた後のことになるが、五週間というわずかの期間に失われた人命は、千五百名にも及んだ。
 この事件は、ナ・ナル全島民の六割が死亡するという、群島史上にも例の無い凄惨な結果を迎えることになる。
 ラインバッハ二世の姦計と、ロドルフォという若者の無知と慢心、実質的にたった二人の人間が、この事態を招いた。

 様々な意味で、ナ・ナルは壊滅的な打撃をこうむったと言っていい。
 確かに、過激な独立志向は一掃されたかもしれないが、その代わりに失われたものが大きすぎる。
 たとえナ・ナルが島の復興を志すにしろ、群島諸国連合に復帰するにしろ、その存在感を示すまでにかかる時間は、十年や二十年ではきくまい。
 島長のアクセルには、辛い時間が待っているであろう。

 アカギは、神木最上階のエントランスの窓からじっと夜景を眺めている。
 彼はひたすら無言で、自然多いナ・ナルの払暁を見下ろしている。
 素晴らしい光景であった。その根元が、四桁に達する人間の血を吸っていると知りさえしなければ。
 珍しく気難しい表情で黙り込むパートナーを、ミズキは心配そうに眺めている。
 アカギが考案した作戦において、ミズキは最も重要な役割を果たした。噂の流布と、過激派の人数の正確な把握である。
 彼女の活躍がなければ、アカギの作戦も成功はしなかっただろう。
 結果的には、アカギとミズキは、ナ・ナル島の騒動をたった二人で解決せしめた。
 これは、この一連の事件において、オベル側の最大の功績と言っても過言では無い。
 だが二人とも、自らの功を誇る気にはなれなかった。
 小細工を弄しすぎた、という思いもあったし、何よりも死者の数が多すぎた。
 正義などという陳腐なものを振り回す気はないし、毒を用いたことを恥じるつもりもない。
 だが、アカギもミズキも、自らの正しさを、胸を張って主張する気にはなれなかった。
 この大功がこの後、二人とリノ・エン・クルデスとの関係を微妙に狂わせていくことになる、ということも、このときまだ二人は知らない。

 アカギが、ぽつりと呟いた。

「さて、これからどうするかな……」

 これが、これからの二人の最大の問題だった。
 無論、リノ・エン・クルデスから受けた指令は達成したのだから、その報告を行うためにも帰還はしなければならない。
 だが、果たしてどこへ帰還したものであろう。
 オセアニセス号に帰るとしても、何処に停留しているか、アカギたちにはまだ知らされていない。
 オベル本島はまだミドルポートの支配下であろうし、オベル側が万が一にも負けていれば、そもそも帰る場所すら存在していないだろう。
 実に奇妙なことだが、いざ任務を成功させてみれば、それからどうすべきか、途方に暮れてしまったのだ。
 元来の独立心の強い土地柄が災いしてか、ナ・ナルは、外部に対しても内部に対しても、群島諸国で最も情報的に封鎖された島である。
 外部の詳細な状況を知っている者など、エルフを含めて存在しないのだった。

 また、ミズキには別のことが気にかかっている。
 ミズキはポーラから、しきりにジュエルのことについて訊ねられた。
 自分が片耳を失ってまで脱出させた親友は、オベルまでたどりつけたのか、と。
 ミズキは全てを告げなかった。時間はかかったものの、ジュエルはオベルに辿り着いた。彼女の熱誠がオベルを動かし、ル王は自分たちを寄こしたのだ。
 そう回答した。
 ジュエルが意識不明の重態で発見されたこと、意識が回復しても長いリハビリが必要であろうこと。
 そしてオベル本島が失陥してしまったことで、ほかの多くの島民と同じく、ジュエルの生死も不明となってしまっていること。
 それらを、ミズキはポーラに告げなかった。
 ナ・ナルの事件の傷を引きずっているポーラに全てを語るのは、まだ早いと思っていた。
 完全な虚偽ではないが、言葉をすりかえざるをえなかった。

 その時、アカギとミズキは、それぞれ異なる方向に気配を感じて、異なる方向に視線を向けた。
 アカギは左に、ミズキは右に。
 ミズキの視線の先には、セルマとポーラがいた。
 霊薬を飲んだとはいえまだ本調子ではないのか、セルマはトレードマークである大剣を持っていない、ポーラのほうは幾分、動きが回復しているようだ。
 問題は、アカギの視線の先にいた者だった。
「先客」である。
 アカギとミズキよりも先にこの神木に侵入し、過激派を打ち倒し、人質開放の契機となった男であった。
 ミズキが思わず殺気だったのを、アカギが右腕で制した。もう男と彼が対立すべき理由は無い。
 セルマが二人の前に立ち、男に一礼をした。

「どなたかは知らぬが、人質の解放に手を尽くしてくれたそうだな。
【ナ・ナル島民】を代表して礼を言わせてもらおう。感謝する」

 ポーラは、セルマの言葉に驚いたように、長身の族長を見上げた。
 セルマは確かに、「エルフ族」ではなく、「ナ・ナル島民」と言った。
 つまり近い将来、アクセルと和解して、両種族共存の道を歩む、という意思の表明なのだろうか。
 もちろん、古株のエルフたちの説得もせねばならないし、人間たちにも複雑な思いがあろう。
 だが、長く人間の世界で生きてきて、人間とエルフの双方を知っているポーラにとっては、信じられぬような一言である。
 悲惨な事件の後にナ・ナルに訪れた、唯一の潤いかもしれなかった。

 男はまだ声を発することなく首を横に振り、アカギとミズキを指差した。
 事件を解決せしめたのはこの二人だ、と言いたいのであろう。セルマはなんとなく理解した。
 アカギは表情を曇らせたまま、男に向いた。
 対立すべき理由は無いが、聞きたいことはあった。

「一つだけ聞かせろ。ロドルフォとやらにとどめを刺したのは、あんたか?」

 人間の首が爆発する、などということが、自然現象で起こるはずが無い。
 また、ロドルフォは遺言とでも言うべき言葉を叫んでいる途中で、炸裂弾のようなものを口に含んでいた様子もない。
 誰かが、彼を外部から殺したのだ。
 何らかの理由で、そして何らかの方法で。

 その長身の男は、今度も首を横に振った。だが、別のことで男はアカギを驚かせた。
 男が声を発したのだ。

「ヤツを殺したのは、【組合】の者だ」

 布を通しているせいか声がこもってしまい、元の声を知ることは、アカギにもミズキにもできなかった。
 だが今は、声ではなく、その内容のほうが、アカギとミズキを驚かせた。
【組合】という言葉が何を意味するのか、ポーラには理解できなかったが、二人の驚愕振りが、事態の重大さを感じさせた。

「組合って、まさか【吠え猛る声の組合】か? この事件に、ハルモニアが関わっているとでもいうのかよ!?」

 だが、男が続けたのは、アカギが望む回答ではなかった。

「そのことで、お前たちに伝言がある」

 男は、アカギやミズキの怪訝な表情を見事に無視して続ける。

「【ラズリルに来い。そこに全てが待っている】……とのことだ」

「誰からの伝言だ。なぜあんたに託されて、なぜ俺たちに伝える?」

 アカギの質問は、大半が無視されたが、ヒントとなることを男は言った。

「お前たちの【軍師】といえば分かると、本人はそう言っていたがな」

「軍師……」

 ミズキは確認するように繰り返したが、男は自分の仕事は済んだ、といわんばかりに、身を翻して階段のほうに向かってしまう。

「待ってくれ。あんたはこれからどうするんだ」

 アカギは声をかけたが、男はそれを無視して、その場を去ってしまった。
 ミズキがアカギを見上げる。

「あの男、確かに【軍師】と言ったか。誰か思い当たるか、アカギ?」

「俺たちに対して【軍師】なんて名乗る物好きは、一人しかいないだろう」

 アカギは笑った。
 苦笑の類であったが、その笑顔はミズキを安心させた。
 この男はむっつりとふさぎこんでいるよりも、感情を奔放に表してこその存在だった。
 そして、その言葉がミズキだけでなく、セルマやポーラにも一つの事実を悟らせた。
 恐らくこの場にいれば、アクセルやラクジーも気付いたであろう。
 彼らに共通する経験といえば群島解放戦争しかなく、その戦争において軍師を名乗った者は、一人しか存在しない。

 エレノア・シルバーバーグ、である。

 赤月帝国の名門、シルバーバーグ家。
 その血筋の中でも、際立って特異な性格と経験とを持つ天才軍師。
 遠く北方の赤月に潜入しているはずの彼女が、どうしてこの群島の事件を知ったのかは定かではない。
 だが、エレノアが動いた、その一事だけでも、既に事件が終結に向かうような淡い予感を、全員に抱かせるに十分だった。

 だが、喜んでばかりいられない。特に、アカギとポーラには心配がある。
 エレノアは確かに天才と言ってよい軍師だが、同時に冷徹すぎるほどの現実主義者である。
 群島解放戦争においても、強大な破壊力を有するマクスウェルと【罰の紋章】を、「まるで道具のように」効率的に用いて勝利を手にした。
 その作戦内容と、徐々に消耗していくマクスウェルの姿を見て、アカギも、そしてマクスウェルの親友たちも、肝を冷やすのと同時に、強い疑問を感じざるを得なかったのである。
 そのエレノアが動き出した。
 これは一連の事件が、より血なまぐさい方向に向かうプロローグではないのか。
 そう危惧する者も、少なくは無いだろう。

「ラズリルへ向かうのか?」

 セルマが尋ねると、アカギもミズキも、そしてポーラも、大きく頷いた。

「行かなければならないでしょう。そこに全てがあるというのなら」

 ポーラが言う。彼女には、会わなければならない人がたくさんいる。
 オベルに行ったはずのジュエル。
 協力して戦っているはずのマクスウェルとケネス。
 そしてラズリル海上騎士団長カタリナ。
 皆、ポーラの大切な仲間だ。
 彼らが戦う以上、自分も立ち上がらなければならない。
 セルマも頷くと、アカギのほうを見、重大な事実を告げた。

「そのことで、お前たちに伝えねばならぬことがある。
 ビッキーが意識を取り戻した。アカギ、ミズキ、お前たちに会いたいそうだ……」

4-13

 部屋に駆け込んだアカギたちを、ベッドに上半身を起こしたビッキーが出迎えた。
 まだその笑顔は弱々しいものの、アカギたちに発見されたときの悲惨な状況に比べれば、ビッキー本来の明るさが幾分、取り戻せているようであった。
 もちろん、今後もリハビリは欠かせまい。
 ビッキーに投与された薬物は強力なもので、彼女が重傷であることには違いない。その効果を一朝一夕に除くことは不可能である。
 できれば、ナ・ナルよりも医療の整った街で、治療に専念するのが望ましいのだが。

「わー、アカギさんだー、ひさしぶりー」

 独特の間延びした声を聞いて、アカギは安心したようだ。
 恐れおののかれるよりは、百倍もましな反応であった。
 色々と尋ねたいことはあったが、ビッキーに負担をかけるわけにもいかず、アカギは自重した。
 このあたりは、セルマもポーラも心得ている。

 ビッキーは、ここ数日の記憶を失っていた。恐らく、度を越えた恐怖体験を記憶することを、彼女の身体が拒絶したのだ。
 詳しい状況をビッキー自身が尋ねることはなく、ほかの誰も語ることはなく、話はどうしても別の方向に向いていく。
 これからどうするのか、と、ミズキが尋ねた。

「アカギさんたちがここにいるってことはー、マクスウェルくんもここにいるのかな?」

 な? と目を向けられたアカギは、少し頭をかいた。

「いや、あの坊主なら、いまオベル近海にいるはずだ」

「そっかー。私が【この時代】にいるってことはー、またマクスウェルくんのところに行かなきゃいけないってことだと思うんだー」

 言って、やや大げさに首をかしげた。
 ビッキーの言葉の意味を、詳しく理解している者はいない。
 ビッキーの言葉はいつもそうだった。なにか重大な事実が示唆されているようだが、尋ねてもビッキー自身も理解し切れていないようで、要点を得ないことはなはだしい。
 根気よく聞き出そうとした者もいるにはいるが、ビッキー自身が「何を聞かれているのかわからない」といったふうにポカンとしているので、そのたびに聞く方も真剣味を削がれてしまう有様であった。

「でも、マクスウェルくんは遠いところに行っちゃってるんだねー」

 と、妙に感心したような面持ちで、ビッキーは頷いている。
 寸前までには予想もできなかった、のんびりとした空気があたりを覆いかけたが、セルマがその空気を一掃した。

「だったら、ラズリルへ行け。そこに全てが集まるというのなら、恐らくマクスウェルも遠からず、そこに来るはずだ。
 ラズリルまで飛べるか、ビッキー?」

 アカギの目が、やや批判的にセルマを薙いだ。
 万全とは言えない今のビッキーに、テレポートをさせるのは、さすがに無茶ではないか。
 テレポートのように一瞬で行くわけにもいかないが、アカギたちがナ・ナルに乗り込んできた【流れの紋章】のついた小船なら、事故でも無い限り、普通の船よりもはるかに早くラズリルまで行くことができる。
 そのあたりで妥協するのが適当ではないか、と思ったのだ。
 ビッキーは、緊張した表情でしばらく考えていたようだが、おっかなびっくり頷いた。

「うん、ちょっと怖いけど、大丈夫……だと思う」

 セルマは落ち着いた様子で一同を見渡す。

「わかった。ラズリルまで行くのは四人」

 アカギ、ミズキ、ビッキー、そしてポーラである。
 アクセルとセルマは、まだナ・ナルを空けるわけにはいかない。
 せめて混乱が収まるまでは、島から離れられないだろう。
 ポーラがセルマに言った。

「セルマ、リシリアを連れて行ってはいけませんか?」

 セルマがぎょろりと目を開いてポーラを見下ろす。ポーラは続けた。

「あの子には、人間への警戒心が定着してしまう前に、外の世界を見せておきたいのです。
 もとよりあの子は、ここで大人しくしていられるような性質たちの娘でもありません。
 将来は族長の座に就くやも知れぬ身、今から外聞を広めさせたほうが、その時のためとなるでしょう」

「ラズリルには嵐が吹くだろう。物見遊山に行くわけではないのだぞ」

「大丈夫です。私が守ります」

 ポーラの瞳を数秒間見つめ、そしてセルマは頷いた。
 その目をアカギたちのほうに向ける

「すまないが、子供が一人増えた。迷惑はかけないから、よろしくお願いできるだろうか?」

 ミズキは難しそうに考えるしぐさを見せたが、アカギは即座に了解した。
 あの元気な娘のことだろう。陰鬱な空気はもうこりごりだった。
 少しでも明るい要素があったほうがいい。

「では決まりだ。
 決まった以上は皆、少し休め。ラズリルは逃げも消えもしない。
 お前たちにも部屋を用意しよう」

「私たちは大丈夫だ。すぐにでも行ける」

 ミズキが無表情で、だがやや強い声で抗議したが、セルマは低い声でねじ伏せた。

「自分でそう言う輩こそ、大丈夫ではないのだ。強く緊張しているゴムほど、切れたときの反動も大きい。
 お前のためだけではない。仲間に迷惑をかけないために、休め」

 ミズキは思わずアカギのほうに目を走らせたが、アカギも首を縦に振った。
 セルマの言にも一理ある。緊張は、解ける時に解いておいたほうが良い。
 なお何か言いたそうな表情を、ミズキは浮かべたが、アカギの判断には素直に従った。


 ラズリルへ―――――。
 事態は急速に変化している。だが、不分明な要素が大きい。
 その流れについていくには、慎重さを求められるであろう。
 その場にいる全員が、口元を引き締めていた。

COMMENT

(初:09.05.10)