リノ・エン・クルデスの命令によって、アカギとミズキの二人の忍びがナ・ナル島の北西にあるネイ島に潜入したのは、オセアニセスを経って二日目、四月十四日の午後八時頃である。
これほどまでに二人が早くネイ島に到達できたのには、理由がある。
オセアニセスにミドルポート勢のオベル占領の報をもたらしたオベル兵は、ネイ島の釣り船に乗せられてきた。
アカギとミズキは、その釣り船にそのまま便乗してきたのである。
しかし、乗船員として老人を二人しか積んでいないこの小さな漁船の速度が、これまでの群島のそれの常識を、遥かに超越していたのだ。
夕暮れの紅に染まる海を真っ二つに裂きながら、その小さな漁船は猛スピードで風のように駆けていく。
アカギとミズキは初体験の速度と揺れのために立つこともできず、無様にも尻餅をついてしまっていた。
「爺さん、なんだこのスピードはぁ! ネイにこんな船があるなんて、聞いたことないぞ!」
鼓膜をつんざく風の音と波の音に負けぬ大声を張り上げて、アカギが老人に問うた。
「なんじゃ、知らんのか若造、今じゃネイ島の船はみんなこれくらい出すぞ。
オベルは時代遅れじゃのう!」
老人は自慢げに笑いながら、種明かしをした。
「これは、【流れの紋章】というのを、船につけとるんじゃ」
「【流れの紋章】? なんだ、そりゃ?」
「詳しくは知らんが、うちの島に、ネコボルトといっしょに商売をしとる妙な娘がおるんじゃがの。
その娘が遠い南の、ハレナだかハルナだかいう国の、なんとかいう
老人は楽しくて仕方ないのか、まるで新しい玩具を買い与えられたばかりの子供のように、生き生きとしている。
「もうネイ島を、老人だけの過疎の島とは言わせんぞぉ! わしの紋章はレヴォリューションじゃあ!」
などと怪気炎をあげながら、また速度を上げた。
やっと立ち上がりかけたミズキは、また尻餅をついてしまう。
「爺さん、ほどほどにしとけ! せっかくその
こちらは慣れてきたのか、アカギが楽しそうに言うと、また老人は笑った。
「なんのなんの、この紋章はネイ島の過疎を消し去る心、光なのじゃ。
ネイの再興を果たすまで、おちおち死ぬこともできんわい!」
ちなみに、老人曰く「なんとかいう河族」は、この時はまだフェイタス川上の小船団にすぎず、「ラフトフリート」と呼ばれるようになるのは、この十数年後のことだ。
また、「ハレナだかハルナ」ことファレナ女王国と群島諸国連合の間には、まだ国交は無い。
両勢力のあいだに正式に国交が成立するには、更に三十年ほどの後の太陽歴三三七年、時のファレナ女王エルメラークの御世を待たねばならない。
ともあれ、アカギやミズキの知らぬところでネイ島にもたらされていた新技術のおかげで、二人は予想よりも遥かに早くネイ島に入ることができた。
二人はここで、一人の重要人物に会った。
ここ数年、群島に急激に勢力を伸ばしている「チープー商会」の主催者、チープーである。
チープーは、ネコボルト族(二足歩行する、人間大の猫のような種族)特有の茶目っ気と、大きな冒険心を体内に抱えた青年だ。
彼はわずか数年前まで、ラズリル村の道具屋の一店員に過ぎなかったが、「マクスウェルと共に流浪し、解放軍を立ち上げて群島を救った」という立場と知名度を最大限に活用し、商売人として大成功を収めていたのである。
そののんびりとした口調や外見からは想像ができないほどの強かさを持っているのだろうが、それはアカギやミズキとの会話にも表れていた。
「ミドルポートがなにかやりそうだってことは聞いてたよ。でも、大変なことになったね〜」
と、まったく緊張感の無い声で、二人に応対した。
「それで?」
暢気さのなかにも冷静な成分を感じ取って、アカギは少しうろたえたが、それを表情には出さない。
「ナ・ナル島がいまどうなっているのか、情報をもらえると助かる」
潜入するにはどうすればいいか、などとは切り出さない。
アカギは当初、チープーがマクスウェルの親友だということもあって、もう少し組し易いかと思っていたが、本人に会ってその考えを改めた。
彼の目前にいるのは、若いネコボルトというだけではなく、日の出の勢いの商会を纏める商人だった。
その冒険心はまったく失われていないが、同じくらい、部下や傘下の商人に対する責任感もある。
彼もマクスウェルと同じく、個人の意思で好き勝手に暴走するわけにはいかない立場になっているのだ。
「ナ・ナル、あそこは今は怖いよ」
「怖い、とは?」
「ちょっと前まで、クーデター派が団結して島を守って、鎖国みたいになってたんだよね。
でも、もともと徹底的な統一思想があったわけじゃないし、絶対の覚悟があったわけでもない。
要するに、ミドルポートの金に目がくらんで暴発しちゃっただけの連中だよ。
オベルが本気になって詰問状を送ってきたあたりから、クーデター派のなかでも考え方が分裂しちゃって、勢力図がぐっちゃぐちゃになってるみたいだよ。
今では誰も制御できなくなって、担ぎ上げられたアクセルさんのお父さんも、殺されちゃってるかもね」
チープーはお茶を飲みほして「ほふー」と息を吐き出しながら、「お金って怖いね」などと、自戒するようなことを言っている。
もっとも、ナ・ナルの中が混沌としているからこそ、少しの金でそのような情報を得ることもできるのだ。
それに、これは閉鎖的な社会の特徴だが、それだけ混沌としていても、外部からの圧力に対しては不思議と団結して、それに対抗する。
外部から見れば、ナ・ナルが群島諸国連合に対して反発的な勢力になってしまったことには変化は無いのである。
ただ、この混沌とした時期にナ・ナルを針で
わざわざそのために、至近距離にあるネイ島を危険にさらすのは、チープーとしては避けたいことであった。
「貴方たちがこの時期に、ここに来た理由は、なんとなく分かるよ。
僕としては、あんまりナ・ナルを刺激することには、協力はしにくいんだけど……」
先手を打って釘を刺された形になったが、アカギはそれに対しては文句は言わなかった。
オベル海軍から、島民救出用の物資を大量に供出させることが不可能な現状で、チープー商会がそれを肩代わりしてくれれば、それがベストの選択肢ではあった。
だが、リノ・エン・クルデスが、潜入・暗殺と破壊工作に優れたアカギとミズキの二名を特に指名して派遣した裏には、可能であれば最大限スピーディーにナ・ナル過激派の中心人物を暗殺し、強引に事件を解決する、という目的がある。
チープーが言うように、ナ・ナルの過激派は「徹底的な統一思想があったわけじゃないし、絶対の覚悟があったわけでもない。要するに、ミドルポートの金に目がくらんで暴発しちゃっただけの連中」である。
そのような感情的に立ち上がってしまった集団はえてして、中心人物を失うと結合力を失い、放っておいても瓦解してしまうものであり、今回もそうなるであろう。
チープー商会には、ネイ島に逃げ込んでくる穏健派の島民がいれば、それをできるだけ救助してやってほしい。
それだけを、アカギは頼んだ。
「それはそれとして、
アカギが言うと、チープーは胸をたたいた。
「もちろん。お客さんの希望を適えるのがサービス業だからね。で、なにが入り用なの?」
「【流れの紋章】とやらがついた小船を一隻欲しい。あと、携帯用の炸裂弾があれば、それも少数」
「ずいぶん好戦的なお客さんだね」
なんとなく苦笑しながらも、その好戦的な商品を即座に用意してくるあたりが、チープー商会が勢いを伸ばしている理由であったろう。
小船をチャーターするのではなく、わざわざ一隻購入することにしたのは、
小船と案内人を借り出して、もしもそれを破壊したり殺してしまうようなことがあれば、ネイ島住民の心情を微妙に逆なでするであろう。
今はどんなに小さなことでも、オベルに対してマイナス要因になるようなことは避けたい、とアカギは計算している。
どこまでも現場主義のこの男が、そのような思考をめぐらすようになったのも、複雑な群島の内情と無関係ではあるまい。
かつての雇い主であり、アカギとミズキの命の恩人であるラマダの最後の命令に従えば、彼らは未だオベル王家ではなく、マクスウェル個人の部下ということになる。
そのマクスウェルがオベルの「客将」という曖昧な立場に甘んじている以上、彼らの立場も、安定しているとは言えないのだった。
「個人が現金で買うには船は結構するし、開戦からこっち、武器関係の価格も上がり続けてるから、ちょっと高くなるよ」
それでも、チープーが提示した価格は、市価に比べれば驚くほど安い。
彼は、オベルとナ・ナルとの関係が悪化し始めた頃から、既に武器船舶関係の商品の買占めに走っており、少なくとも商売上の抗争では、この時期においては一人勝ちと言ってもよかった。
おかげで、彼らが本拠地とするこのネイ島は、他の誰も知らないうちに、群島諸国の武器庫・火薬庫のような有様となってしまっているが。
「領収書は切るかい?」
「そうだな、名前は「上様」で頼む」
アカギは冗談めかして言ったが、あとでこの領収書を見て、リノ・エン・クルデスが表情の選択に迷った結果、思い切り苦笑を浮かべたのは、また別の事実である。
そして、真夜中である。
四月十四日午後十時。
音を消した一隻の小船が、ナ・ナル島の西岸に接岸した。
無論、アカギとミズキである。
彼らは、船の運転方法を確認すると、時間を無駄にすることなく、そのままナ・ナルへと向かった。
途中まで最高速度で走り、ギリギリまで近づいてから、そろりそろりと接岸する。
島の西岸を選んだのは、チープーの助言による。
島の南側に唯一の港があるナ・ナルでは、どうしてもそこを重点的に警護することになり、侵入が難しい東と西の警護はおろそかになりがちだという。
どこの世界でも、このような情報に通じているのは政治家ではなく、商人なのだった。
やや高くついた情報ではあったけれども。
ナ・ナル島の西岸は、切り立った岸壁が連なる中に、一箇所だけ、小さな入り江がある。
二人はそこを侵入口に選んだ。
そこから少し離れた場所に船をとめ、黒い布で覆って目隠しにすると、ゆっくりと海岸に近づく。
その海岸は幅三メートルほどの小さなもので、島へ行く道も、人一人がやっと通れるほどの隘路しか通じていない。
二人は岩陰に隠れて、周囲を伺う。
アカギもミズキも夜目が利くが、そこには小さなランタンの灯りがともっていた。
警護している島民がいるのだ。
二人は、聞き耳をたて、会話の内容からその島民が過激派の一員であることを確認したあとは、二人の行動は早かった。
視線を交わして一つ頷くと、次の瞬間、アカギとミズキはそれぞれ逆の方向に消えていた。
「それにしても、いつまでこんなわけのわからん状況が続くのかねぇ」
警護の一人が、愚痴をもらした。彼らは彼らで、疲れきっている。
確かに、情熱のままに激発したまではよかった。
だが、オベル王女の暗殺に失敗し、オベルが本気になり始めたあたりから、焦りが出てきた。
オベルと正面きって戦争したところで、勝てるわけがない。
それに、彼らにとっての【切り札】が、このところ機能しなくなっている。
底抜けの楽天家が計算したって、もう勝てる要素は殆ど無い。
そうすると、あとは責任のなすりあいだった。
ミドルポートから計画と金を持ってきた男は、
「私は話を持ってきただけで、決断したのも実行したのも貴方たちだ。失敗の責任など、私は知らない」
の一点張りで、過激派の上層部がくだらぬ内輪もめに精を出している隙に、いつの間にか姿を消してしまっている有様である。
ラインバッハ二世に唆されて、勢いよく立ち上がったはいいが、そのとき既に、彼らは広い川の中州に取り残されてされていたのである。
しかも、対岸に渡るための橋は、とうに切り落とされていた。
誰もが景気よく上ばかり見ていて、自分で橋を切り落としてしまったことに気付く者などいなかったのである。
「なぁ、お前はどう思うよ」
もう一度、彼は今夜の相方に語りかける。しかし、返事はなかった。
彼がいぶかしんで横を見ると、彼の相方は首から上を失い、糸の切れた人形のように崩れ落ちるところだった。
「お……ッ」
慌てて駆け寄ろうとした彼も、すぐさま自分に起こった異変に気付いた。
いきなり背後から首を押さえつけられ、背中に刃物を突きつけられたのだ。
身体中の神経に、冷気が走り去った。
耳元で男の声がした。寒気がするような、冷徹な声だ。
「大人しくしろ。質問に答えれば、命は助けてやる。大声は出すな」
彼は、必死で何度も首を縦に振る。
たとえ万の覚悟があったとしても、殺し合いの経験が無い者が、いざ命の危機に直面すれば、欲しいのは自分の安全であった。
「この島で、クーデター派の指揮を執っている者はどこにいる」
「し、島長のアクセルさんの屋敷だ……」
「暴動に参加している人数は?」
「始めは六百人ほどいた……。だが今は七十人ほどしか残っていない……。
意見の分裂があってから、内部抗争で、みんな殺しあってしまった……」
「穏健派の住民はどうした」
「島の奥に、エルフの大樹がある。
そこの牢にエルフと人質をまとめて押し込んでいる。
大樹に入りきらなかった者のうち、戦えるものは脅してクーデターに参加させ、戦えない者は家に閉じ込めて、窓も扉も打ち付けてしまった。
家に食料の備蓄の無かった者は、今頃、餓死しているかもしれん……」
一瞬の間があった。
男を脅迫していたアカギが、余りの事実に、怒りの声を抑えていたのだ。
男を脅す声が、男性から女性のものに変わった。
「これからの計画はどうなっている。
ナ・ナルをどうしようというのだ」
「そ、そんなこと、下っ端の俺が知るもんか。上の奴らに聞いてくれ。
俺たちは、意見の合わない奴らに殺されないようにするだけで精一杯だ」
すでに、ナ・ナルは末期症状と言っていい。
放っておいても、あとは勝手に自滅するだろう。ミズキはそう睨んだ。
現在における最善の手段は、このままその自滅を傍観することだ、と。
だが、アカギの見解は異なる。
想像以上に危機に瀕している穏健派の住民を、救わなければならない。
過激派の自滅まで待つことにでもなれば、ナ・ナルには過激派の他殺体と穏健派の餓死体の山が残るだけだ。
それは、リノ・エン・クルデスやマクスウェルの戦後の構想とは異なる情景に違いない。
それにナ・ナルには、遥か彼方にいたはずのマクスウェルやフレアを襲撃した、という事実がある。
この「遠距離テロリズム」の真実を明かさないことには、また同じことが行われない、という保証は無い。
突然、ミズキの武器であるクローが、脅していた男の腹を裂いた。
一瞬の間思考に時間を費やしたアカギが、ふと我にかえる。
アカギの隙をついて、警護の男が大声を上げそうになったのだ。
この男には男なりに、自分の行動への忠誠心というものがあったらしい。
だが、それをミズキが許さなかった。
声を上げようと男の胸が空気に満たされた瞬間、それはミズキに引き裂かれた。
意味不明の音を漏らしながら、男は砂浜に倒れこむ。
アカギは、やや顔をしかめて、それを見下した。
「俺は穏健派の島民を助け出すつもりだ」
男に視線を落としたまま、アカギは言った。
「ミズキちゃんの言いたいことは分かってる。俺は冷静じゃないかもしれない。ミズキちゃんはどうする?」
問われたミズキは、少し肩をすくめた。小さく息を吐き出す。
「お前なら、必ずそう言うだろうと思っていた。
そして、それがマクスウェル様の御意志でもあるだろう。
信頼できる意思が二つも揃えば、それが私の真実だ」
ミズキは現実主義者であるのと同時に、優秀な忍びである。
どのような形でもナ・ナルが大人しくなればよい、というのであれば、ミズキの案がもっとも現実的である。
だが、彼らの上司であるマクスウェルは、それを望むまい。
群島を一瞬で壊滅させるほどの強大な紋章の力を体内に秘めながら、マクスウェル自身は争いを好まない一面がある。
ミズキにしてみれば、そんな彼の「優しさ」は裏返せば「甘さ」でしかないのだが、そのマクスウェルの「甘さ」を、ミズキ自身はわりと気に入っているのだった。
そして、そんな上司の意思に沿うのが、忍びの職務であった。
「囚われの住民を救出し、過激派を殲滅する。どちらにしても、時間は無い。迅速な決断が必要だ」
救出と殲滅、どちらを先に実行するか。その選択は、難しい問題であるはずだった。
だが、二人は殆ど時間をかけることなく、視線を交わして頷く。
そして島に向かって隘路を走り出した。
向かうは島の奥、エルフの大樹である。
(初:09.03.25)