窓から入った光が視線を撫で、読書に夢中になっていた彼女を、現実の世界に引き戻した。
自分の人生に時間を加えるごとに、時間そのものの概念は徐々に長くなる。
群島の歴史に詳しい歴史家ターニャは、そう思う。
読書、とくに【罰の紋章】に関わる書物を読み込んでいるとき、彼女は、時間を一気に、そしていつでも七十年ほど遡ることができた。
彼女の人生で最も光彩にあふれていた時間だ。
ターニャの周囲には群島の英雄が、綺羅星の如く出現しては輝き、そして消えていった。
それは果たして、歴史のもたらす儚い結果だろうか?
いや、そうではなかろうと、彼女は思う。
歴史とは、この世界を彩る数百万人という人間、一人ひとりの青春群像が重なり合って構築される、壮大な絵巻なのだ。
それは、一人の登場人物、一つの単語が欠けても、成立しえずに瓦解してしまうであろう。
例えば、先ほどまで彼女が読んでいた「オベル沖海戦」では、その主役の一方を担うリノ・エン・クルデスは、実に多くの誤断を犯している。
それは、後世の人間が冷静に見れば、むしろ単純とさえいえるミスが多い。
だが、そのリノ・エン・クルデスの数々の誤断がなければ、ターニャが現在余生を送っている、この未来は存在しないのである。
それは、いかにミスを犯していようと、その判断が歴史を構築するに「必要な誤断」であったことを意味しているのだ……、というよりも、そもそも、歴史を構築する人間という存在の、「判断」という行為を、正誤によって分類する行為こそが、不毛なものであろう。
そう、「人間」の「判断」とは、その全てが正しいのである。
個人が一つの判断を下した結果として、未来は確定し、時と歴史は前進することができる。
その判断が、個人にとって良き未来をもたらしたか、悪しき未来をもたらしたか、それは個人の感受性によっていかようにも受け取れるため、論ずるに値しない。
歴史という流れにおいて、善悪という概念を持ち込むことは無意味であり、かつ空しい行為である。
歴史家としてのターニャにとっての「悪」とは、すなわち、この「判断」、もしくは「決断」を迅速に行わず、ずるずると先延ばしにすることである。
それは歴史書のページに空白を作るだけで、他に何も意味を為さない。
先のリノ・エン・クルデスを引き続き例に挙げるならば、彼は自らの判断によって迅速に敗北し、加速する歴史に停滞をもたらすことを避けている。
これだけでも、彼は偉大な人間であると賞賛されるべきだとターニャは思うのであるが、残念ながら、彼女の周囲の人間は、リノ・エン・クルデスという過去の英雄を、そこまで深く掘り下げてみることができないようであった。
彼らは、リノ・エン・クルデスの戦場におけるミスばかりを考証し、それが歴史に与えた影響というものを考慮しようとしなかったのである。
『歴史書の登場人物に血を通わせられない人間に、歴史家たる資格など無いのではないか』
老ターニャは、彼女の知る近視眼的な歴史家たちを、そう毒舌の刃で切り裂いてみせたが、翻って、彼女自身の歴史観が世の大勢で無いことも知っていて、決して大声で喧伝するようなことは無かった。
「ターニャの世界」の歴史は、ターニャ個人が識っていれば良いだけのはなしであった。
老ターニャは、頭を一つ振って陰気な思考を体外に追放すると、それまで読んでいた書をいったん脇に置き、別の書を手に取った。
当時の群島の様子をより深く識るためには、オベル沖海戦と同時期に進行していた別の事件のあらましを追う必要がある。
すなわち、このとき、ナ・ナル島で何が起こっていたか、ということを―――――。
(初:09.03.25)