クォ・ヴァディス 17

3-10

 全ての生命活動が停止してしまったわけではないが、オセアニセスを中心とする連合艦隊は、瀕死と表現して差し支えない状況にある。
 先の「第二次オベル沖海戦」に当初参加した艦艇数は、大型艦八隻、小中型艦十五隻であったが、かろうじて戦場を離脱したのは大型艦四隻、小中型艦五隻に過ぎず、この時点では負傷者の数も確定できないという有様であった。

 さながら野戦病院と化した感のある旗艦オセアニセスの艦橋は、戦場を離脱してから二時間たっても沈黙と衝撃に鷲づかみされたままで、一向に立ち直る気配を見せていない。
 むしろ戦闘の全てを見ることが無かった内部の船内スタッフが、空元気といえど声を張り上げて、船の修復や負傷者の手当てを行っていた。
 ただ、その船内にも、艦長であるマクスウェルの凶行は伝わっている。こういう状況にはありがちではあるが、口から口へ、噂は大げさに、しかも、不完全なかたちで、ほとんど光速に近い速さで広まっていった。

 様々なバージョンの噂が広まったが、そのどれの中核にもなったのが、「マクスウェルが自らの意思で【罰の紋章】を使い、オベル島を消滅させようとした」という部分である。
 人々は「まさか、あの艦長が……」と噂を否定しようとしたが、噂と同時に、リノ・エン・クルデスが甲板に倒れたままのマクスウェルを放置している、という事実も伝わり、否定の言葉を続けることができなかった。

 噂はどうあれ、リノ・エン・クルデスがマクスウェルをしばらく放置していたのは事実である。
 艦長の行為を至近で目撃してしまった艦橋の船員たちの間では、マクスウェルに対する不信感が、無言の圧力と化して艦橋の空気を重くしはじめていた。
 リノ・エン・クルデスとしては、更なる惨劇を招く可能性のあるこの空気を、どのように制御したものか、考えあぐねていたのである。
 マクスウェルを保護する、処罰する、そのどちらにしても、敗戦のショックのさなかにある人心を、微妙に損ねるであろう。

 オベル海軍に燦然と輝いた壮麗な旗艦の鉄の結束は、今や胡散霧消してしまっていた。
 優秀で気骨あるスタッフをまとめられるのも、優秀な艦長と健康的な士気があってのことである。いまやこの船は、その双方を欠いていた。
 どちらにしろ、帰還する場所も無ければ、食いつなぐ物資も無い。リノ・エン・クルデスは、不愉快だが深刻で重大な、様々な決断に迫られていた。


 その陰鬱たる船内に異変が起こったのは、それから一時間ほど経ってからである。
 リノ・エン・クルデスは、舵をどこに向けるか思案しあぐねて、オベル沖南四十キロのところに、とりあえず碇を下ろさせていた。
 実を言えば、当てがまったくないわけでもない。
 一番確実なのは、ここから更に南西にある、女海賊キカのねぐらであり本拠地である「海賊島」に向かうことだが、リノ・エン・クルデスとしては、できればそれは避けたいことだった。

 キカは海賊でありながらリノ・エン・クルデスの同盟者ということもあり、訪れれば冷たくあしらわれることはあるまい。
 だが、キカも群島諸国において名の知れた傑物である。
 周辺の海賊としては最大の一家を養っていかねばならぬ身である上に、これだけの艦隊に転がり込まれては、さすがに手に余るであろう。
 二〜三日、衣食は提供するが、男ならあとは自力でなんとかしろ、といった反応が自然であろう。
 そもそも、オベル王国軍とキカ一家の同盟関係、共闘関係というものは、悪質な低級海賊の討伐において利益が一致したから結ばれているだけのもので、どこまでも損得勘定によるものだ。
 キカとリノがお互いに敬意を持っていることは確かだが、その敬意とは別の次元の話であるし、今回のオベルとミドルポートの戦争自体が、キカには無関係なこともある。
 キカ自身が、そういった政治的な領域に利用されることを極端に嫌うたちでもあり、彼女から好意的な反応が返ってくるはずもない。
 更に言えば、リノ・エン・クルデスとしては、この一回りも年下で気難しい女海賊から軽蔑されるなど、想像もしたくないことだった。
 それは女性に対する差別心ではない。むしろ、キカを自分と同格の存在と認めているからこその、一個の男としての意地だった。


 そのように、艦長代理も艦橋員も、不機嫌な面を並べて百の思考を無言のうちに進めている。
 なにもしないよりは確かにマシではあろうが、だからといって建設的なアイデアが突然に思いつくわけもなく、艦橋の体感温度はますます下がっていた。
 そんなときである。
 艦橋のひと隅でいきなり、どさどさどさ、という、かなり大きな落下音が響いた。

(敵の攻撃か!?)

 敗戦のショックにささくれ立っている船員の全員が身構えながら、険しさを極めた視線をその隅に向けた。
 だが、そこにあったのは、全員の予想を裏切るものだった。
【人間の山】が、そこにはできあがっていた。
 三人の人間が、どこからか現れて、倒れたまま折り重なっていたのである。

「痛ッてぇ……。ビッキーちゃん、意外と荒っぽいな……。
 もっと丁寧に送ってくれんもんかねえ……」

【山】の一番下になっている長身の男が、長い手足を小さく動かしつつ呻いた。
 その上の女が、無表情に答える。

「贅沢を言うな、アカギ。重傷の彼女が必死で送ってくれたのだ。
 ありがたいと思わなければ」

「したり顔で言うのはいいんだけどさ、ミズキちゃん、どいてくれない? ちょっと重いんだけど」

「…………………………」

 ミズキはアカギに折り重なった姿勢のまま、彼の頭に拳骨を落とした。

「痛ッてぇ! なにすんだ、暴力反対だぞ」

「うるさいぞ、アカギ。殺されなかっただけ、ありがたいと思え」

 言いながらも、ミズキはもう一人の男性とともに立ち上がり、頭を抑えているアカギに手を差し伸べて立ち上がらせた。
 アカギは呻きながら長身を立ち上がらせ……そして、周囲から異常な警戒を向けられているのに驚いて、思わずミズキに耳打ちした。

「……なあ、ひょっとして俺たち、場違い?」

「…………………………」

 ミズキは答えなかったが、警戒しつつも視線を走らせ、状況を認識しようとする。
 そんな中、アカギの目が、甲板で倒れたまま放置されているマクスウェルを確認し、その表情をこわばらせた。
 彼は、簡単な動作でそれをミズキに知らせて、周囲の殺気に負けないくらいの不愉快さを表情にあらわした。

「こりゃあちょっと、面白い話が聞けそうじゃねえか……」

 彼の声が、自然と音程を下げていた。

3-11

 アカギとミズキは、周囲の艦橋員から軽い説明を受け、なんとか状況を飲み込んでいた。
 マクスウェルが【罰の紋章】でオベルを攻撃したさいの説明には、作為的な悪意がまぎれこみ、アカギはあからさまに眉をしかめさせたが、彼を怒らせたのは別のことだった。

「それでアンタら、自分たちの艦長を、あんなとこに置き去りにしておいて平気なのかい」

 あきらかな軽蔑の感情を投げつけられて、艦橋が一瞬、殺気だった。
 声が上がった。

「マクスウェルはオベルを、罰の紋章あんなもので攻撃したんだぞ! そんなヤツを艦長と仰ぐことなんかできるか!」

 これが船員たちの正直な心象だったのだろう。
 これまではリノ・エン・クルデスとマクスウェルの立場に遠慮していた怨嗟の声が、いっせいにあがった。
 そのすべてが、マクスウェルの名を呼び捨てにしていた。
 さまざま語彙を使って、彼を罵倒した。
 それだけ、【罰の紋章】に操られたマクスウェルの蛮行は、オベル兵たちの心に風穴を開けてしまっていたのだ。
 だが、アカギの怒りの一喝が、それらの怨嗟を強引に押さえつける。

「その前に、艦長が罰の紋章そんなもので、そのタコだかイカだかを倒さなきゃ、お前らが死んでたんだろうが!
 こうして文句を言えるのは誰のおかげだ。
 オベルが実際に消えたわけじゃなし、お前らは、これまで何度【罰の紋章あれ】に助けられてきた?
 それに同等の何かを、お前らはあの艦長に返したことがあるのかよ!」

 場が静まった。
 誰もアカギの一喝に、反論することができなかった。
 彼らの心中にあるマクスウェルへの負い目を、アカギは鋭く指摘したのだ。
 アカギは、ミズキと同じ忍びの技術を伝承する村で生まれ育った、生粋の「忍」である。
 その長い手足と身の軽さを生かした、忍び特有の任務に優れた実績を持つ。
 だが、相棒のミズキが機械のように冷静に任務に勤めるのに対し、アカギはもう少し人間的な感情の発露が豊かだった。
 任務は忠実に、かつ確実にこなしたが、気に入らないことも感動したことも、はっきりと口に出した。
 恩人であるラマダへの厚い忠誠や、かつての雇い主であったクレイ商会への不信感などが、その一例であろう。
 そのアカギの一喝は、国王にも向けられた。

「国王陛下。俺はラマダさんの最後の命令に従ってここにいるだけで、オベル自体にはなんのしがらみもないから、好きに言わせてもらうがね。
 大国たる、そして海の男たるオベル軍の心意気なんざ、こんなチンケなもんなのかよ?」

 その場にいる、リノ・エン・クルデスを含むオベル関係者にとっては、この指摘は少々こくすぎるかもしれない。
 なにも、全員が好き好んでマクスウェルを非難しているわけではない。
 状況が普通であればむしろ、皆がマクスウェルを擁護したであろう。
 だが、いまさら状況が普通だと強弁できる者は、一人としていないであろう。
 敗戦の被害を最小限にとどめたのは、間違いなくマクスウェルの功績である。
 同時に、オベルを消滅寸前まで追い込んだのもマクスウェルであった。
 ささくれ立った心の中で、その功罪どちらが大か、ということを本能的に天秤にかければ、被害意識のほうに傾くのは、人間としては仕方のないことだった。

 関係者全員の胃と神経とを十分に逆撫でておいて、周囲をひと睨みしたあと、アカギは大またで甲板に出て行く。
 ミズキが警戒しながら、その背中を追った。

 波も風も比較的穏やかで、先ほどまでの戦闘の激しさをうかがわせるものは無い。
 ただ、春先にしては気温は低く、肌を突き刺すような感覚だった。
 手足や肩を大胆に露出させているミズキは、少し身を震わせた。
 アカギは、無様な姿のままで放置されているマクスウェルのそばにその長い脚を折り、いたたまれない表情を一瞬見せた後、マクスウェルの腕を取って、いくつかのことをチェックした。

「死んではいねえな」

 その声に、彼のそばにいたミズキが、安堵の表情を浮かべた。
 意外なことだが、こういった治療行為に関することは、ミズキよりもアカギのほうが得意としている。
 無論、ミズキも自分の治療はできるし、他人への治療行為も教え込まれてはいるが、まったく無駄のない戦闘行為のようには、なかなかいかなかった。
 アカギは続ける。

「失神してるだけだが、早いとこ休ませてやった方がいい。少し衰弱してる」

 言って、アカギはマクスウェルの腕を肩に担いで抱き上げた。
 ミズキが、手伝おうか、と声をかけたが、アカギはやんわりと断った。
 男性としては平均的な身長のマクスウェルだが、長身のアカギと女性のミズキの間ではバランスが悪いし、アカギの腕力で支えることも十分に可能だった。

 そうして、甲板から艦橋に戻ろうとしたところで、アカギたちは大勢のオベル兵に囲まれた。
 全員が、先ほどまでの殺気を失っていなかった。
 その中心人物であり、アカギに対しているのは、サルヴォという長身の男である。
 旗艦の操舵責任者であるハルトの部下で、その能力を認められつつも、日ごろから上に対しても下に対しても尊大な言動が多く、しかも一船員の身でありながら政治的行動を好み、敬して遠ざけられることが多かった。
 近衛司令官であるトリスタンは、彼のことを、「言大にして、誠才足らず。その様、空鯨くうげい」と、かなり手厳しめにノートに書き付けている。
「言うことばかりが大きく、誠実さにも才能にも欠けている。自分を鯨のように大きく見せようとしているが、まるで中身が無い」、という意味である。
 そのサルヴォが、高圧的に訊いた。

「待て、その男をどこに連れて行く」

 一兵卒にしては、慇懃な口調だった。
 憮然として、アカギが答える。

「艦長室に連れて行って寝かせるだけだ。お前らには関係ない」

「いや、ある。その男の攻撃行為は、国家反逆罪にあたる。
 その男は罪人だ。加担すれば、お前も同罪となるぞ」

 このような性格の男にとってみれば、「罪人」という存在はそれだけで足下になじるべきものなのであろう。
 人を敬する道というものを知らぬゆえに、この男は自らの言動のサイズに合わず、いつまでも一兵卒に甘んじていなければならないのである。

「ほう、お前みたいな一兵卒が、上司の罪を勝手に決定して裁けるのかい。
 いい国だねぇ、オベルってのは」

 あざけるようなアカギの言葉に反応して、サルヴォが思わず剣を抜く。
 プライドの高さは、この際、大きな欠点となる。周囲の男たちが同調してそれに従った。
 二桁に達する剣先を向けられても、アカギもミズキも、驚きも狼狽もしなかった。
 この程度のことで、この二人の心胆を寒からしめることなど不可能である。
 ミズキが二人の間に割り込むように身体を入れて、静かな殺気を放った。

「やめておけ。私たちは、戦闘と暗殺のプロだ。
 お前たちのような素人が何人でかかってきたところで、かなう相手ではない」

 嘘ではない。アカギとミズキは、幼いころから暗殺と毒物の知識を叩き込まれている。
 そして実際にクレイ商会の指示で、少なからぬ人数をその手にかけてきているのだ。
 精強なオベル兵といえど、二人の敵ではない。
 この静かな恫喝に、剣を向けた男たちは色めき立ったが、サルヴォだけは笑っていた。
 相手に対する人数の差が、彼を強気にさせているようだった。

「なるほど、人殺しの化け物ってわけだ。
 大方、その紋章の小僧と化け物同士、気が合うんだろうさ」

 この挑発に、ミズキは軽く口元を引き締めたが、アカギは乗らなかった。
 逆にあざ笑った。

「ああ、確かに俺たちは人殺しの化け物かもしれねえよ。だが、お前らと違って、恩ってもんを知ってる。
 ラマダさんには世話になったから、今もその命令に従ってる。この坊主にも、何度となく助けられたから、恩を返す。それだけのことさ。
 たとえ化け物同士の友情でも、いくらかは美しく見えるだろうよ。恩知らずのドブネズミの醜さにくらべればな」

 この嘲笑は、さすがにサルヴォの理性をはじけさせた。
 サルヴォの合図で、周囲の人間たちがいっせいにアカギたちに襲いかかろうとしたとき、男たちは予想外の現実にぶち当たった。
 アカギたちを取り囲んでいた自分たちが、更に別の人間たちによって、周囲をぐるりと取り囲まれていたのである。
 同じ軍装の輪が、アカギたちを中心に二重にできあがっていた。
 そして、その中心人物が割り込んできて、サルヴォの鼻先に、静かに剣を向けた。

「ミレイ……将軍……」「ミレイちゃん……」

 複数の声が向けられる。
 ミレイは、まだ幾分青白い顔をしていたが、なんとか理性を取り戻している。
 だが、まだその顔には表情というものはない。
 どちらかというと淡々とした声で、ミレイは言った。

「キカ様の言葉ではないが、船の上では、艦長の存在は絶対だ。
 マクスウェル様は、現時点でリノ・エン・クルデス陛下から艦長の地位を剥奪されたわけでもなければ、国家反逆罪を宣告されたわけでもない。
 ひるがえって、マクスウェル様に対するお前たちの越権行為は、十分に反乱罪にあたる。
 私はオベルの国法を守る立場として、お前たちを捕縛する」

 言って、ミレイは剣を持っていない左腕を振り下ろした。

「とらえろ!」

 場は騒然とした。
 ミレイがつれてきたのは、ミレイが本来指揮をとっている部隊である。
 オベル兵たちが、同じ軍装の【反逆者】たちを次々と捕らえ、連れて行く。
 怒号と悲鳴が何小節か派手に演奏されたが、十五分もして全員が捕縛されると、あたりに静寂が横たわる。

「ミレイさん……」

 ミズキが声をかけたが、ミレイはうつむいたまま、ミズキと視線を合わせようとしない。
 故意に表情を隠しているようであった。
 ミレイが、搾り出すように声を発した。

「私には、マクスウェル様の真意はわかりません。
【真の紋章】の意味も、それを持つ苦しさも、私にはわかりません。
 私はただ法を守り、マクスウェル様をお守りする……。
 ただ、それだけです……」

 そうして、二人に背中を向けた。
 アカギもミズキも、その背中に声をかけることが、なぜかはばかられた。
 迷いに支配されながら、与えられた役割にしがみついて、なんとか立ち上がっている。
 そんな印象の背中だった。

 その騒動を艦橋から見ながら、リノ・エン・クルデスは大きく息を吐き出した。
 理想的な状況ではないが、すべては即座に決断しかねた自分の責任である。
 アカギの無礼な一喝には、一瞬、憤りを覚えもしたが、その「チンケ」な状況に場を追い込んだのは自分だった。
 責められるべきは自分であり、アカギやミズキ、ミレイには感謝しなければならぬ。
 若い世代は、自分の仕事をこなしている。
 最年長の自分が立ち止まっているわけにはいかなかった。

 そうして、リノ・エン・クルデスは、一人の男に向き直った。
 アカギやミズキといっしょに、突如として現れた「第三の男」。
 四十代だろうか。背は高くないが上品な身なりをしている。
 少々、目元に険があるが表情も優雅であり、長い金髪を揺らして、その男はオベル国王に対し、丁重な礼をした。
 リノ・エン・クルデスは、この男を知っていた。

「さて、君にはいろいろと聞かねばならぬことがあるが、なにから説明をうけたものかな、シャルルマーニュ卿?」

 シャルルマーニュ。
 その名を持つ男は、息子のほうのラインバッハの年齢の離れた盟友であり、いまやリノ・エン・クルデスの敵国となりおおせたミドルポートの貴族であった。
 リノ・エン・クルデスは、シャルルマーニュに対して警戒感をあらわにした。
 特別に彼が嫌いだったわけではないが、いまやミドルポートに関係する者、というだけで十分に警戒に値した。
 シャルルマーニュのほうでも成熟した感覚を有しており、相手の非礼な対応に腹を立てることはなかった。
 この典雅な貴族はその場にひざを突くと、深々と頭を下げた。

「このたびの我らが領主の蛮行、いかにしてお詫び申し上げればよいか、見当がつきませぬ」

 おや、と、リノ・エン・クルデスは思った。
 ラインバッハ二世の醜悪な裏切り行為が行われたのは、ついぞ先日のことである。
 なぜ遠くミドルポートにいるはずのシャルルマーニュが、その事実を知っているのか。
 だが、シャルルマーニュは、リノ・エン・クルデスの思考の流れをあえて無視するように、話を続けた。

「これについて、我らミドルポート領民は、場合によってはミドルポート本島の支配権を差し出してでも陛下に対してお詫びする所存の由、どうかご寛恕のあらんことを」

「なんだと?」

 シャルルマーニュの丁寧な言葉は、リノ・エン・クルデスの意表をつきすぎて、しばし返答に困らせた。
 この男は、いまなんと言った? ミドルポートの支配権を差し出す?

「どういうことか、説明してくれ。話が飛躍し過ぎて、いまいち理解しかねる」

 シャルルマーニュは恐縮して説明した。
 ミドルポートでは、オベルからナ・ナル制圧のための艦隊派遣要請があったしばらく後から、ちらほらと船籍不明の軍艦が目撃されるようになった。
 ミドルポートは経済規模はともかく、地理的には小さな一都市国家でしかない。領主はお抱えの艦隊を持ってはいるが、それはあくまで「私兵」の類であり、どこかを武力で制圧するためのものではなく、どこまでも防衛目的のための兵力である。
 その船籍不明の軍艦は、交易都市のミドルポートで商談をしている様子もなければ、オベルの作戦に参加しようとしている意気込みでもない。
 まったく目的不明の係留であったのだが、深夜、その中の要人と思われるものが領主の屋敷に出入りしている情報が出回り、「領主がどこかを攻めるのではないか」という噂が、市民たちの間で起こった。
 そして、主戦派と慎重派の間で、無責任な論議が行われ始めた。
 当初、隣接に近い位置にあるラズリルがその標的と思われ、ラズリル側もその噂を聞いて警戒を強めていたが、ラインバッハ二世とラズリル海上騎士団長カタリナの会談によって両都市の同盟関係が再確認され、噂は噂で終わった。
 だが、艦隊の進発直後に領主が姿を消してしまったこともあって、ミドルポートでは更に噂が噂を呼び、火種がくすぶり続けていたのだ。
 そして、ミドルポート艦隊がオベルを攻撃し始めた、という事実を足の速い商船がミドルポートに伝え、ついにシャルルマーニュを中心とする反戦派・親オベル派が蜂起。
 島を一気に制圧し、ラインバッハ二世の追放宣言を出してしまったという。

「それで、今ミドルポートはどういう状況にあるのか?」

「現在、ミドルポートの統治は、ラズリル海上騎士団の協力を得て、我ら反戦派の代表グループが行っております。
 できれば、前領主の長子であり、思慮深き賢人であるシュトルテハイム・ラインバッハ三世殿にミドルポートにお戻りいただき、新たな領主になっていただきたいと、我らもラズリル側も思っているのですが、陛下がお望みであれば、その支配権を差し出すことを拒みはいたしません」

 リノ・エン・クルデスはあごに手を当てて考え出した。
 どうにもおかしな状況になったものであった。
 ナ・ナル島の島民が起こしたマクスウェル襲撃事件から始まった今回の騒動は、ラインバッハ二世が裏から糸を引き、すべてを操っていた。
 それは事実である。
 そうして、ナ・ナルと息子を捨て駒として、真の主演俳優であったラインバッハ二世は、彼が描きあげたメインシナリオの流れどおり、オベル王国をまんまと占領した。
 そして、最大の障害であったはずのオベル・ラズリルの連合艦隊も、快勝とはいえぬ結果ながらも退けた。
 オベルの完全支配は時間の問題であり、ミドルポートとオベル王国、この広大な領域の支配者となる彼は、その権勢でもって群島諸国のみならず、この海を覆うすべての大陸・国家に対して、彼の存在感を主張するはずであった。

 だが、ここにきて彼は自分の本拠地を、自分の支配していた民の裏切りによって失うことになった。
 ここにリノ・エン・クルデスが入ることになれば、敵対する勢力が、自分の本拠地におらぬまま、敵方の領地全域を支配しあうという、なんとも歪んだ勢力地図ができあがることになる。
 当然、リノ・エン・クルデスはオベル王国を、ラインバッハ二世はミドルポートを奪還するための戦闘を繰り返すことになるだろう。
 そこに、ラインバッハ二世が本来、目的としていた行動を起こす余地が起こりえるかどうか、微妙なところだろう、と、リノ・エン・クルデスは考える。

 関係する各人にとって、戦争の意味にも目的にも、段々とずれが生じはじめていた。
 リノ・エン・クルデスにしたところで、当初の目的はナ・ナルを制圧することだったのだから。
 これはまったくの偶然なのか、それとも、ラインバッハ二世ではない、更なる【第四者】の存在があるのか。
 先の戦闘で手痛い敗戦を喫したリノ・エン・クルデスにしてみれば、もう状況を見誤ることはできぬ。
 我慢のしどころであった。

 そこで、リノ・エン・クルデスふと我に返った。
 忘れていたことがある。彼はシャルルマーニュに肝心なことを確認していない。
 リノ・エン・クルデスは、シャルルマーニュに矢継ぎ早に質問を繰り出した。
 アカギとミズキがここにいるということは、ナ・ナルは現在どうなっているのか。
 そもそも、どうしてアカギたちとシャルルマーニュが一緒にいるのか。
 そして、どうやってここに「出現」したのか。

 シャルルマーニュは、勢いよくまくしたてる亡国の王に対して、やんわりと語りかけた。

「陛下、とりあえず、ラズリルにお越しください。
 そこに、陛下のお求めになるすべてがそろってございます」

「俺が求めるもの? それはなんだ」

「物資、人材、艦船、そして本拠地……。
 今の陛下に必要と思われるすべてのものが、です」

「………………………………」

「そして、なによりも」

 シャルルマーニュの典雅な視線が、険しいリノ・エン・クルデスの目を貫く。

「この事件の真相」

「………………………………!」

 リノ・エン・クルデスの表情に軽い衝撃が走ったのを確認して、シャルルマーニュは再び頭を下げた。


 こうして、オベル・ラズリル連合艦隊の残存兵力は、碇を上げた。
 ラズリルへ―――――。
 事態は急速に変化している。
 だが、その流れについていくには、重い行軍だった。
 味方の屍を多く海に沈めたままでの、失意の航海であった。

COMMENT

(初:09.01.20)