オベル王国沖一キロ。
四月十六日、午前八時。
その海域において、戦闘はまだ終了したわけではない。
戦況は激しく二転三転しているが、どちらかが全滅したわけでもなければ、降伏したわけでもない。
だが、戦況は奇妙に膠着している。
ミドルポート艦隊は逃走に逃走を重ねた状態から、艦列も士気も回復しておらず、オベル・ラズリル連合艦隊は、余りにも突然の壊滅的な危機を退けたものの、こちらも戦闘を続行できる状況ではなかった。
強いて言えば、どちらも「有利ではない」といったレベルの差であろう。
その膠着した状況の中でも、緊張が解かれたわけではない。
ことに連合艦隊の緊張の水位は、極めて危険なレベルにある。
それは、先にも後にも、たった一つの要因による。
つい先ほどまでは、オセアニセス号に絡みついた、たった一匹の巨大生物による危機的状況が原因だった。
だが現在のものは、それを退けたたった一人の青年の存在であった。
【 罰の紋章 】によって巨大生物を消滅せしめたマクスウェルは、そのままの姿で甲板に屹立している。
そのままの姿―――つまり、罰の紋章から発せられる紅と黒の、靄のような光と、悲鳴のような音に、全身を包んだまま。
誰もが、その姿に未知なる恐怖を感じていた。
これまでも、マクスウェルが罰の紋章を使用したことはある。
そのときも、標的となった物を消滅せしめ、または打ち砕いてきた。
先ほどの巨大生物を消滅せしめた破壊力も、確かに驚異的な事実ではあるが、オベル海軍、そしてかつて解放軍に参加していた者ならば、初めて見るものではなく、驚きも恐怖も、我を失いきるほどのものではない。
だが、かつてマクスウェルが罰の紋章を使用したときと現在とでは、明らかに状況が異なっていた。
かつて、彼がその力を用いたときに光を発していたのは、紋章が宿るその左腕だけであった。
だが現在は、彼の全身が光に包まれている。
これが第一。
更に、マクスウェルはこの紋章の力を使用するたびに、その凄まじい過負荷に精神が耐えかね、必ず直後に意識を失っていた。
だが現在は意識を保ったまま、彼に似つかわしくない不遜な表情で、甲板からオベル島を睨みつけている。
これが第二。
そしてこれが最大の違和感であろうが、先ほどマクスウェルが紋章の力を開放したときに発した大音声は、明らかに彼の声ではなかった。
それどころか、男性一人のものですらなく、複数の男女の声が複雑に重なり合っていた。
マクスウェルの身に、何かが起こっている。より正確に言えば、罰の紋章が、マクスウェルの身に何かを起こしている。
それだけは確実だったが、実際に何が起こっているのかを確かめる勇気のある者は、少なくともオセアニセス号には存在しなかった。
ミレイも、リノ・エン・クルデスでさえ、冷気に精神の核を鷲づかみにされて、一歩も足を動かすこと、かなわなかった。
先ほどから、まるで永遠のような一瞬が連続している。
その中心にいるマクスウェルが、ついに動いた。
大きな動きではなかったが、それだけで見ている者全員に、脳髄が氷の剣で断ち切られるような冷たい緊張を感じさせた。
マクスウェルは一歩踏み出してやや俯き、何かを呟いていた。
先ほどの大音声が嘘のように声は小さく、彼の姿を覆う靄のような暗い光のせいもあって、なにを言っているのかは不分明であった。
だが、次の瞬間、顔を上げ、赫と目を見開いてオベル島を睨みつけたとき、その音声は復活した。
彼は、彼のものではない声で、叫んだ。
《 姉上――!! 》
意外すぎる単語で始まったその叫びは、だが更に想像を絶する内容を続けた。
《 おのれ姉上、今もそこでご覧になっておられるか!?
剣と盾の相克より幾星霜、闇に分かたれた貴方以外の二十六の涙を、今もそこでご覧になっておられるか!?
この私の無様な今を……地の底からご覧になっておられるか!! 》
マクスウェルの身体から零れ落ちるこの慟哭の意味を、この場で理解した者は一人もいなかった。
だが、マクスウェルの次の行動が、その場の者の体温を、一気にゼロにまで下げおおせた。
マクスウェルはあろうことか、【 罰の紋章 】の宿るその左腕を、わずか一キロ先、充分に視認できる距離にあるオベル島に向けたのだ。
これは、オベル島を、その真の紋章の力によって、消滅させようとする意思にほかならない。
「やめろ―――――――!!!!」
顔どころか全身を蒼白色に染めたリノ・エン・クルデスが、全身の力を喉から声に変えて放出する。
異口同音の狂声が、その海域に存在する全ての船から放たれた。
勇気ある船員が、艦橋から飛び出し、マクスウェルに飛び掛る。
「艦長、止めてください!! あそこにはまだ、俺たちの家族も、守備に残った同胞もいるんですよ!!」
冷静さを欠いてはいるが必死なその叫び声に、マクスウェルはもっとも獰猛な返答をよこした。
《 寄るな、下衆(げす)!! 》
叫ぶと同時に、光に包まれたままのその右腕が船員に一閃する。
勇敢な船員は、その勇敢さだけをこの世に残して、一瞬に黒い塵と化して弾け、空気に溶けきった。
馬鹿馬鹿しいほど呆気ない、命の散華である。
それは、もはや彼の全身が【 罰の紋章 】と化しているかのように思わせる状況だった。
「…………ッッ!!」
いよいよ状況が正視できなくなって、ミレイは身体中を震わせながら床にへたり込んだ。
状況が怖かったのもあるが、ミレイが最も恐怖したのは、マクスウェル自身にだった。
もはや【 人間 】であることすら放棄しているように見える英雄の姿に、かつてない恐怖を覚えていた。
彼にいったい何が起きているのか、それを考える余裕など、既に存在しない。
それは、ミレイだけではないが……。
ミレイと同じように、誰一人として動けなくなったその場において、【 マクスウェルだったもの 】はただ一人、思うがままに我意を押し通した。
《 魂魄の蜜は腐乱に詠い、華爛なる飢餓は無縫であり無尽、歴史など世界など例外なく無価値!
安寧なる永遠の【 罪 】に浸り、せめて有情なる死を渇望せん!! 》
その雄叫びと同時に、彼を包んでいる紅と黒の光の靄が、全て彼の左腕に凝縮される。
その腕は、もはや一門の砲身と化していた。この世で最も狂猛な兵器だ。
「やめろ―――――――!!!!」
リノ・エン・クルデスが再び叫ぶ。
先ほどと言葉こそ同じだが、籠められた危機感は百倍に増した。
彼が殆ど初めてあげた、それは【 悲鳴 】だった。
その後を追うように、再び多くの狂声が上がる。
その全てが、【 マクスウェルだったもの 】の蛮行を、なんとか思いとどまらせようとするものだった。
だが。
それは、一切届かなかった。
【 マクスウェルだったもの 】を包む禍々しい光と音が遮って、彼に届かせなかった。
《 砕け散れ!! 》
彼以外にとっては、誰に向けられるべきものかすら不明な、より一層の憎悪と蔑みとを籠めた大音声とともに、【 マクスウェルだったもの 】の左腕が光る。
轟音というよりも爆音と称すべき音を発し、紅黒の閃光が極太のビームとなって、マクスウェルの腕から【 発射 】された。
その場にいた者、リノ・エン・クルデスも、ミレイも、ケネスも、グレッチェンも、全員が、自らの視覚と聴覚以外の全ての生命活動が停止してしまったような感覚に陥れられた。
【 罰の紋章 】特有の光と、悲鳴のような爆音が、彼らの全ての神経網を焼き尽くしたようであった。
誰も何もできないまま、閃光は猛スピードで直進する。
海面を凹型に抉り、オベル島に向けて疾走する。
それは指向性を持った、即死性の狂猛な兵器であった。
誰もがわかりきっている。二年前、エルイール要塞の巨大な紋章砲が、遠く離れたイルヤ島の表面を焼き尽くしたことがある。
人工の兵器でさえ、そのくらいのことは可能なのだ。
それが世界の創世に関わるという「真の紋章」の破壊力となれば、オベルの一つや二つ、一撃で消し飛んでしまうだろう。
そのことを、心臓と精神とを氷結させているこの場の全員が分かっている。
だが分かっているだけで、何もできはしない。
わずか数秒後に現実となるであろう、その惨禍に対して、何もできはしないのだ。
そして、その瞬間が訪れる。
【 マクスウェルだったもの 】は禍々しく口元を吊り上げ、リノ・エン・クルデスやケネスは、見たくも無いのに視線をはずすことすらできない。
誰もが一瞬先の地獄を予想し、想像し、諦めた。
オベルの滅亡は、数秒先の既定の未来だった。
だが。
人という弱々しい生命の想像力をあざ笑うかのごとき現実は、更なる驚愕を用意していた。
禍々しい閃光が、地響きと轟音とともにオベル島を直撃した。
誰もが無残に砕け散るオベル島を、現実として脳裏に焼き付けた。
だが、その光景は、完全に裏切られた。
信じられぬ光景が、目前に展開されている。
【 罰の紋章 】の閃光が、オベル島を直撃する直前、新たなる轟音と光と海水とを撒き散らしながら、
直進する極太の閃光は、オベル島の至近で斜め上に捻じ曲げられ、そのまま天空に急角度で突き刺さっていた。
まるでオベル島そのものが、【 罰の紋章 】を拒絶するかのように。
激しい風圧と光圧にダメージは負いながらも、オベル島は、その姿を変わらずその場に見せていた。
目の前で展開された現実を、すぐに理解できた者は殆どいない。
オベル側のリノ・エン・クルデスも、ミドルポート側のヤンセンも、そして島で戦況を見守っていたラインバッハ二世でさえも、正常な思考能力を失っていた。
罰の紋章による閃光と、オベル島がそれを弾いたことによる荒波で、海上は瞬間的に大時化の状態となった。
こうなっては、もう戦闘どころではないが、それを正確に分析できる者は、肝心の戦場には存在しなかった。
《 おおおおおおおおおおおおお!! 》
【 マクスウェルだったもの 】の咆哮が、天空にこだまする。
同時に赤と黒の光の柱が再び彼から一直線に上空に放たれ、頭上の雲の間に吸い込まれた。
《 おのれ姉上、夜と太陽だけでなく、己の罰さえ愚弄し、拒絶するか!! この口惜しさの飢え、必ず輪廻させてくれる……ッ!! 》
その咆哮が最後だった。
天空を貫いた光の柱と、悲鳴のような轟音が消えた。
続いて、【 マクスウェルだったもの 】の全身を包んでいた、靄のような光が消えた。
そして、マクスウェルは、ゆっくりと甲板に倒れこんだ。
倒れこんで動かなかった。
今度こそ。
全てが終わった。
マクスウェル一人が倒れたところで、今だ戦闘が終幕を迎えたわけではないが、例えそれを理解している者がいたとしても、戦闘を続行する覇気のある者は、両艦隊にはすでにいなかった。
敵味方関係なく、顔面を蒼白にし、身体を痙攣させていた。ごくわずかではあるが、ショック死した者もいたようである。
このような状況にあって、最も早く【 意識を回復した 】のは、やはり両艦隊の指揮官だった。
完全な指揮能力を回復するには至っていないが、それでも最低限の指令を出すことはできた。
「敵の動きを監視しつつ、残った艦を順次、オベル港に戻せ。
負傷者から先に下ろし、急いで治療させよ。
出撃しなかった二艦を入れ替わりに出航させ、哨戒と生存者の救助に当たらせよ」
ヤンセンは歯を鳴らしながら、手短にそれだけを指令した。その指令だけで充分だった。
安全な場所へ帰ることができる。それだけで、船員にとっては大変な幸福に思えた。
問題は、安全な場所に帰れないほうであった。
「……生き残った艦をまとめ、反転しろ。とりあえず、沖に退避するんだ……」
リノ・エン・クルデスは、力なく後方を指差した。
戦意を失ったわけではないが、最後の切り札であった【 罰の紋章 】が、こういうかたちで「破られた」衝撃は、計り知れないほど大きい。
優秀な艦長でもあるマクスウェルは、まだ意識を失って倒れてから甲板に放置されたままだ。
よりにもよって、オベル海軍の本拠地であり、兵士の大切な家族や友人の残ったままのオベル島を消し飛ばそうとした艦長に、誰も近づこうとはしなかった。
リノ・エン・クルデスは、指揮官と艦長との二役を、疲労した心身に鞭打ってこなさねばならなかった。
その艦長代理の状態をこれ以上なく反映して、オベル・ラズリル連合艦隊は、行くあてもなく、沖へと力なく流れていった。
この「第二次オベル沖海戦」による両艦隊の船舶被害は、ミドルポート艦隊3.5に対し、連合艦隊8であった。
死者、行方不明者数は、ミドルポート艦隊八百四十二名、連合艦隊千五百五名。
負傷者の数を含めた連合艦隊の「死傷率」は七割を超えた。
大型艦による被害はもちろん、怪物や【 罰の紋章 】による小型船への損害が、被害を大きくしていた。
単純な比較でも、連合艦隊は二倍の損害を被っている。
ほぼ同数の艦による戦闘において、巨大生物というイレギュラーはあったものの、オベル・ラズリル側の惨敗であった。
オベル史上にも例のない大敗であった。
戻る地も無く、すごすごと沖へと去っていく連合艦隊の背中をオベル島から見ながら、ラインバッハ二世は大量の汗をかいていた。
彼は勝者ではあったが、それも結果的にそうなった、という意識がぬぐいきれず、しかも一瞬前までの【 罰の紋章 】の直撃の恐怖を実感しており、生きた心地はまったくしなかった。
彼の隣に侍っていた屈強な兵が、未だに平成を取り戻せずに呼吸を乱している領主の汗を拭き、豪奢な私服の上着を受け取った。
ラインバッハ二世は、上半身全体を使って、肺の中の空気を全てため息にして吐き出した。
「ヤンセンは口だけではないか。
頭に血を上らせおって、【 マルガリータちゃん 】がいてくれたからよかったものの、艦隊戦だけなら負けておる。不甲斐ない」
【 マルガリータちゃん 】というのが、マクスウェルによって消滅させられた巨大な怪物の名前であった。
同じくマクスウェルらによって以前倒された【 デイジーちゃん 】よりも更に強く巨大で、ラインバッハ二世にとっては、大枚をはたいた甲斐のある可愛いペットだったのだが、それをあのオベルの若造が、理不尽にもわけの分からぬ力で殺してしまった。
ペットを失うことによって立ち直れぬ衝撃を受けることを、「ペット・ロス」という。
この言葉を、あの若造に叩き込んでやりたい気分だった。
まったく、動物好きにとっては不倶戴天の敵であった。
「帰ってきたら、即刻、ヤンセンとの契約を解除してやる」
ようやく呼吸を整えなおしながら、ラインバッハ二世は呟いた。
島中が大混乱に陥っていた。
原因不明の事態によって島の消滅は避けられたものの、「罰の紋章」による攻撃と、それを「島」が「弾いた」ことによる破壊力は凄まじく、風圧と衝撃により多くの木や建築物が倒壊し、怪我人が出ていた。
一部では火災も発生している。
その沈静化に勤めたのは、二人の男だった。
一人は「旧」オベル王国の宰相、セツである。
ラインバッハ二世から市民のリーダー役を請われたセツは、その「あざとさ」に口ひげの下で唇をかみ締めながらも、国民のためと割り切って、老体に鞭打って市民の前に立ち、ミドルポート兵の監視の下、声を張り上げて復旧を指導した。
今一人は、セツとは別に、ミドルポート兵を指揮した男だった。
その男は、市民を刺激せぬように兵を動かした。
火災を消化し、倒壊した建造物を除去し、余計なことはいっさいさせず、兵をただ市街の復旧作業に専念させた。
ただ、ミドルポート兵に助けを求める市民に対しては、手厚すぎるほどの救護を与えた。
市民に敵視されぬことが、安全な支配経営に繋がる重要な要素であると、彼は知っている。
それは彼の本意ではなかったかもしれないが、彼の精緻な頭脳は、今の状況に必要なものはなにかを冷静に判断していた。
その男がラインバッハ二世をオベル王宮に訪ねたのは、昼をやや過ぎてからであった。
まだ市街に混乱が残ってはいるが、火災は全て消し止められ、建造物の下敷きになった死者・負傷者の救出もあらかた終わっていた。
もうじき、被害の状況が数字として確定するだろう。
その男の顔を見たとき、ラインバッハ二世は、嫌悪を表すことは無かったが、好意的な表情も浮かべなかった。
極めて事務的な対応でその男を出迎えた。
歳は五十前に見える。
この男は常に笑っていたが、それが感情表現の発露でないことは、誰が見ても明らかだった。
顔面に貼り付けられた仮面のようで、口元だけで笑っている、不自然な笑顔だった。
彼の持つ「色素」は、その殆どが希薄に見えた。
肌は人並みの色をしているが、短く刈り込まれた金白色の髪と、特に透明に近い青色の瞳が、その印象を倍加していた。
それが彼の笑顔の無機質さを、更に強烈に印象付けていた。
ラインバッハ二世自身、この男を好いていたわけではない。
その有能さを認めてはいるが、私的な交友を持とうとはせず、あくまで打算と妥協の結果としての同盟者、という関係を貫き通している。
その男の報告を聞いて、ラインバッハ二世は無感動に頷いた。
本音を言えば、オベル国民がどうなろうと彼の知ったことではないが、限りのある兵力で
ラインバッハ二世が話題にしたのは、別のことだった。
「しかし、奴らまさか、自分の国に向けて【 罰の紋章 】を使ってくるとはな。正気の沙汰とは思えん」
自分の所業を棚に上げておいて、彼は敵を非難した。
聞いた男の腕から、不自然な金属音が漏れる。その左腕は、肘から先が金属製の義手であった。
ラインバッハ二世は続ける。
「君の忠告に従って、警戒を強めておいてよかった。
それにしても、君はこうなることがわかっていたのか、クレイ殿?
このオベル島自体が、【 罰の紋章 】に対する天然の防御壁であることを」
その男――グレアム・クレイは、その笑顔と同じような、低く無機質な声で返した。
「御領主殿がお探しの【 アレ 】がこの島に眠っている限り、【 罰の紋章 】の【 意思 】は、この島には届きません。
【 アレ 】は【 罰の紋章 】に対する絶対の【 器 】。そして【 罰の紋章 】が切り札にならぬ限り、彼らには勝機は無い。
単純な論法です」
長い髪と出っ張った腹とを揺らして、ラインバッハ二世は頷いた。
クレイが話題を変える。
「それにしても御領主殿、私はあなたの現実的で非情なところを気に入っているが、まだお甘いですな」
「……と、いうと?」
「一兵士の報告を簡単に信じすぎるな、ということです。
御領主殿はお気づきにならなかったかもしれませんが、昨夜オベル艦隊の来襲を報告した兵士は、オベル側の密偵でした」
「なんだと!?」
「ご心配なく。
一人は地下通路で、残りの二人も王宮外にて既に始末しています。
それぞれに、オベル艦隊と内部反抗勢力との密通と、御領主殿、あなたの暗殺が目的だったようです」
ラインバッハ二世の顔から少し血の気が引いたように、クレイには感じられる。
「今回の艦隊戦はヤンセン提督が苦戦したようですが、半分は彼の責任ではありません。
半分は、オベル艦隊がたった二艦で来襲するなど、ありえない報告を無邪気に信じて、性急に艦隊を出撃させた、あなたの責任です。
お耳汚しながら御領主殿、以降、ご注意ありたいものです」
「ふむ、君には感謝すべきなのだろうな」
クレイは薄い笑顔のまま、義手ではない右手を振って見せた。
「いいえ。御領主殿は政略には秀でていらっしゃるが、こと軍略にはお詳しくない。
今回はそこを突かれただけの事。それをサポートするのが私の仕事です。
これからはご相談いただき、よき関係を築いていきたいものですな」
「うむ、お互いにな」
そうは言ってみたが、どちらも心底からその言葉を発していないことは明らかだった。
ただ、奇妙な連帯感は確かにある。お互いに政略的な発想が多いため、相手の思考が読みやすいのだ。
決して「友情」と呼べるような関係ではないが、わざとらしい言葉をちらつかせて牽制しながらも、彼らはお互いの目的のためだけに結合を崩さないのであった。
勝っている間は、である。
いざとなったとき、お互いがお互いをスケープゴートとしない、という保障は、どこにも存在しない。
「それよりも御領主殿、そろそろ【 アレ 】の発見に本腰を入れねばなりません」
クレイの色素の薄い目が、ラインバッハ二世を貫いた。
「わかっている。そのためにわざわざ、オベルを占領するなどという危険を冒したのだからな」
「【 アレ 】が眠っている場所は分かっています。あとはただ掘り起こせばよろしい。
それで、御領主殿の目的も、私の野望も達成できるというもの」
「うむ、時間も惜しい。私は作業の指揮に戻らせてもらう。市街のほうは任せたぞ」
クレイの返答を待たず、ラインバッハ二世は王宮を後にしようとした。
この男を相手に会話を続けることは、彼にとっては心麗しき時間ではなかった。
だが、クレイの脇をすれ違うとき、ラインバッハ二世は、同盟者を牽制することを忘れなかった。
「クレイ殿」
「はい」
「これからも、よろしく私を支えてくれたまえよ」
その言葉の装飾を剥ぎ取れば、「裏切るなよ」という本音となる。
不実の笑みを浮かべ、ラインバッハ二世はその場を去った。
残されたクレイもまた、笑っていた。
彼のそれは元もとの表情ではあるが、とにかく笑っていた。
「愚かな……。だから、他人の話を無邪気に信じるな、と、ご忠告申し上げたのに……。
【 器 】の正体を知ったときのあなたの表情が見ものですな、御領主殿……」
軍略に一番詳しくないのは私である。
ごめんなさい。
(初:08.12.97)