クォ・ヴァディス 15

3-6

 最初に変化に気づいたのはケネスだった。
 午前七時を過ぎ、既に空には太陽が清新な輝きを放ち始めている。そして、目前の海上で行われている凄惨な戦闘の状況も、確実に視認できるほど露になっていた。
 オベル・ラズリル連合艦隊は、逃げ回るミドルポート艦隊を、逆にオベル島から一キロの地点まで追い掛け回している。

 だが、ケネスはふと不自然な感覚を覚えた。味方の艦列がやけに乱れているのだ。
 勝利に酔った艦が暴走して突出しているのではない。
 逆に、何隻かの味方の足が遅くなり、整然としているはずの艦列を乱しているのだ。

「なんだろう、変事でも起こったかな」

 ケネスが、彼の脇に控えていたラズリル海兵学校の剣術師範である長身の女性、グレッチェンに確認し、グレッチェンがそれに答えようと身を乗り出したときだった。

 変化は激烈なかたちで訪れた。ケネスとグレッチェンが見ている前で、その動きを止めていた僚艦が、いきなり、轟音と共に割れた・・・

 その艦イルルヤンカシュ号は、リノ・エン・クルデスの作戦とケネスの指揮に忠実に従い、ミドルポート艦隊を猛追していた。
 艦長ウェクスラーは必要最低限の命令で、新たな艦砲の発射を準備させた、その瞬間だった。
 突然、何かが船体に叩きつけられた。
 まるで空から巨大ななにかが降ってきたような衝撃だった 。
 誰も、何も理解する間もなく、次の瞬間にはもう船は船でなくなっていた。
 ウェクスラーは、指令を出した瞬間の姿勢のまま、衝撃の直撃を受けて肉体と精神とを空中に四散させた。
 多くの者がそれに準じて「潰れて」いた。

 それを多くの者が至近に見て確認した。だが、すぐには誰も目の前の状況を理解できなかった。
 確かに、そのイルルヤンカシュ号は「割れた」のだ。
 先ほどまで留めていた原型は既に無く、船体は前側と後ろ側とに真っ二つに避け、急速に海面上から海面下へと沈んでいく。
 海面には、脱出した船員たちで溢れた。
 状況を全く飲み込めないながらも、ケネスは真っ先に正しい判断をした。

「他の艦は攻撃を続行せよ。我が艦は攻撃を中止して味方の収容と救助に移る」

 冷静な艦長の指令で、とりあえず艦橋は冷静さを取り戻す。
 この近辺だけでなく、群島の海域はどこも海底が複雑に隆起している。恐らく、海図には無い未確認の突起状の隆起にぶつかりでもしたのだろう。
 そう思いつつも、一瞬前まで持っていた勝利の確信に小さな疑問符をつけつつ、ラズリル艦隊旗艦ヤム・ナハルは、漂流する味方の救助作業を開始した。

 だが、船員たちとケネスのその想像もまた、一瞬で裏切られた。
 動力を停止したヤム・ナハルの至近で、再び僚艦の船体が轟音とともに前後に裂けたのだ。
 ヤム・ナハルは、激しい衝撃と波に翻弄されながらも、なんとか転覆せずに済んだが、船体を前後に両断された二隻目の僚艦は、海上に投げ出された船員を残し、いまだ多くの船員を船体に収容したまま、どうすることもできずに沈んでいく。
 だが、今度は、その船体が両断される瞬間を、多くの者が目撃した。
 何か、巨大な「ムチ」状の物体が、いきなり海中から現れ、その艦をまるで巨人がおもちゃでも鞭打つように、空から強烈な一撃を与えたのだ。

 圧倒的に押していたはずの連合艦隊は、一転して大パニックに陥った。
 リノ・エン・クルデスの作戦が成功し、海上での戦闘で勝利目前まで敵を追い込んだはずだ。
 だが、いきなり海中から現れた【 何か 】が、そんな彼らの横顔に強烈なビンタをかましたのだ。

 何が起こったのかまったく理解できないまま、連合艦隊の艦列が急に乱れる。
 だが、そんな状況をあざ笑うかのように、巨人の鞭が再び一閃し、今度はオベル海軍の艦が真っ二つにされた。

「いかん! 後退しろ! 急いでこの海域を離れるんだ!」

 ケネスは声を張り上げ、残った艦に急後退を指令した。
 まだ海上には漂流者がわずかにいるが、このままここにいては旗艦まで沈められてしまう。可哀想だが、見捨てていくしかない。
 オベル艦隊でも同じ指令が出されているのか、残された二艦が逆進をかけ、後退を開始していた。
 追撃するどころではない。船員の顔の色を赤と青とに忙しく入れ替えながら、ヤム・ナハルとオセアニセスは全力で後退する。
 今度はそのオセアニセスに、巨人の鞭が一閃した。海から現れた【 何か 】が、オセアニセスの甲板に叩きつけられる。
 空気を裂く振動がまず感じられ、一瞬遅れて、雷撃のような轟音と、地震のような激しいゆれが船員を襲った。
 だが、さすがにオセアニセスは一撃では沈まなかった。
 その頑健な甲板は激しく傷つきつつも、巨大な【 何か 】の攻撃に耐え切ったのである。
 そのおかげで、その巨大な【 何か 】は、オセアニセスの甲板に正体をさらけ出した。
 それは、信じられぬほど巨大な、烏賊イカか蛸の脚のようにも見えた。オセアニセスのマストよりも太い。
 いずれにしても、自らの意思を持って動く、巨大で危険な【 脚 】だ。
 船体を貫通できなかった、その巨大な【 脚 】は、今度はオセアニセスの船体に巻きつきはじめた。

「副団長、オセアニセスが!」

「マクスウェル、退がれ────ッッ!!!!」

 グレッチェンとケネスの悲鳴が、重なるようにヤム・ナハルの艦橋にこだまする。
 オセアニセスは必死で逆進しようとしているが、いったん絡みついたあの巨大な【 脚 】は、離れようとしない。
 それどころか、今度は締め上げて船体を破壊しようとしている。
 群島の象徴であり、オベルの誇る最新鋭の巨大艦が、たかが海洋生物に破壊されようとしていた。
 しかし、相手がいかになんでも巨大すぎる。

「そうか、【 デイジー 】だ!」

 ケネスが、今にもオセアニセスを破壊しようとしている生物の正体を看破した。

「デイジーって!?」

「ラインバッハ二世が、趣味でミドルポート沖に飼っていた、島のように巨大な、烏賊みたいな怪物さ。
 群島解放戦争のとき、ミドルポートに寄港しようとしたオセアニセスを、獲物か敵と間違えて攻撃してきたので、俺たちで退治してしまったんだが」

 しかし、今目前でオセアニセスを締め上げている【 脚 】は、そのときの「デイジーちゃん」のものとは比べ物にならないほど大きい。
 デイジーもいい加減に巨大な生物だったが、まだ人間の手で退治することが可能だった。だが、それでも解放軍に多数の重軽傷者が出るような激闘だった。
 今目の前にいる生物は、そんなレベルではない。
 大国の艦隊が、前もって整然と準備を整えて討伐するような代物だ。
 ラインバッハ二世は、このときのためにわざわざ新しい【 ペット 】を飼い躾けたのだろうか。なんと厄介な趣味を持っているものか。
 しかし、状況は一秒ごとに悪化する。
 グレッチェンが低い声を張り上げた。

「副団長、こちらから砲撃して、アレをオセアニセスから引き剥がしましょう。
 あの化け物の注意さえそらせればいいはずです」

「無理だ! あれだけ激しく動いていると、照準が安定しない。
 オセアニセスに当たるかもしれない、一か八かの砲撃などできん!」

「じゃあどうするんですか、このままオセアニセスが沈んでしまったら、全てが終わってしまいます!」

 普段は自信と強さに溢れているはずのグレッチェンの表情は今、怒りと焦慮で正確に二分されている。
 彼女の言う「全て」という言葉には、様々な意味が籠められている。
 二年前の群島解放戦争、一年前のクールーク紋章砲事件。
 あのオセアニセス号に多くの同士が集い、目の前に現れる多くの難関を、「人の力」で突破してきた。
 オセアニセスは歴史的事実においても、精神的な意味においても、群島解放の象徴であり、群島に住む人々の支えであるのだ。
 そしてグレッチェンはミレイと同じく、マクスウェルの護衛として、最後までオセアニセスに乗っていたのだ。
 いまオセアニセスが沈んでしまえば、それらの全てが失われる。
 歴史と精神の象徴が消え去り、群島はラインバッハ二世によって、再び闇と瘴気に包まれてしまう。
 なによりも、グレッチェンの最も大事な精神的な核となる部分が消えてしまう。
 そんなことはあってはならない。絶対にあってはならないのだ。
 だが、それに対するケネスの返答も、普段の物静かな彼からは信じられぬものだった。

「黙れ! そんなことは言われなくても分かっている! だから考えているんじゃないか!」

 はっきりとした、それは怒号だった。
 むしろ、オセアニセスに対する愛着は、グレッチェンよりもケネスのほうが数段強いのである。
 グレッチェンはラズリル解放後、解放戦争の末期になって解放軍に加わったが、ケネスはそれこそ、マクスウェルと共に解放軍を立ち上げた本人である。
 竣工直後からオセアニセスに乗っているのであり、その時間はマクスウェル、ジュエルと並んで誰よりも長い。
 そんな彼が、オセアニセスの危機に怒りを覚えないはずが無い。
 うっ血するほど拳を強く握って肩を振るわせるが、今のケネスにできることは無いに等しい。
 もどかしさと怒りだけが、心に積み重なっていく。
 ラズリル艦隊のトップ二人がヤム・ナハルの艦橋で一触即発の空気になったとき、戦場は三度、状況を激変させた。

 嵐の中の木の葉のように必死に悶えていたオセアニセスの艦橋から、死に瀕した人間の断末魔のような音と共に、真紅と黒の禍々しい光の柱が立ち上ったのである。
 それは、現段階で想像しうる、最悪の状況だった。

3-7

 オセアニセスの艦橋は、地獄としか表現できない有様となっていた。
 怒号と悲鳴が船内の壁を乱打し、船員全員の鼓膜を激しく震わせたが、殆どの者が、無意識のうちに、聞こえるよりも大きな悲鳴を発していた。

「落ち着け! 慌てずに艦長の指令に従うんだ!」

 リノ・エン・クルデスやミレイが声を枯らして言い聞かせたが、一度巻き起こった恐怖とヒステリーの波は、空気を伝播して瞬間的に船員の精神を支配してしまっている。
 動ける者は激しく揺れる船内を無様に転げまわり、動けない者はその場に尻餅をついて震えてしまっていた。
 オセアニセスが竣工してから二年、このような醜悪な絵画がこの最新鋭艦の内部に描かれるなど、誰が想像しただろう。
 勇気ある何名かの者が、オセアニセスに巻きついている巨大な【 脚 】に一撃を加えてやろうと甲板に出たが、一撃を与えるどころかまともに立つことすらできずに、海に転げ落ちていく有様である。

 さすがのリノ・エン・クルデスも、オセアニセスの放棄と脱出のタイミングを模索し始めた。
 もちろん、この旗艦を棄てることの意味を彼は良く理解しているが、それにしても船員の命には代えられない。
 船はまた作りさえすればよいが、有能な部下は無尽蔵に存在する資源ではないのだ。
 どう足掻いてもあの化け物を振りほどけぬ以上、その貴重な資源を保つ義務が、リノ・エン・クルデスにはあった。
 その「義務」が、「サリシーザ」号の船員の失われた命と矛盾無しに成立しえるかどうかは、今は考えている暇は無い。

 そうしてその意思を艦長であるマクスウェルに言おうとしたときに、その艦長の姿が艦橋にないことに、彼は気づいた。

「ミレイ! マクスウェルはどこにいった!?」

 言われたミレイが、言われてから初めて気づいたように驚いて周囲を見渡した。
 ミレイも艦橋を落ち着かせるのに必死で、それ以外のことに意識が行かなかったのだ。
 当然、艦長も自分と同じく、艦内の安定を図るべく対応していると思ったのだが、その姿はいつの間にか艦橋から消えている。
 二人が慌てて視線を周囲に走らせたとき、船員の一人が叫んだ。

「陛下! 艦長が甲板にいます!」

 その声がスイッチとなって、リノとミレイをはじめ、多くの艦橋員が艦橋の窓に張り付いた。

 その報告どおり、マクスウェルは甲板に立っていた。
 激しく揺れる足元を意に介さず、信じられぬバランス感覚で立っている。
 いや、「立ち尽くしている」という表現の方が正しいだろう。
 彼は周囲の喧騒がまるで耳に入っていないかのように、ただ目前に存在する怪物に、その正面を向けている。
 誰も何も言えずに、その背中を見守った。
 誰もが、彼の次の行動を予測していた。
 だが、誰もそれを口に出せなかった。
 若き艦長の左腕、忌まわしき「罰の紋章」が宿る彼の左腕が、真紅と黒の禍々しい光を発し始めたときも、誰も言葉を発しなかった。
 現在の危機を脱するには、この方法しか存在しない。
 自分たちが生き残るには、艦長の命を削るこの方法しか存在しないのだ。
 誰もがその矛盾を理解しながら、言葉を出せなかった。

 結末は、実に呆気なかった。
 マクスウェルは、靄のように立ち上る赤と黒の光に包まれた左腕を、怪物の脚に向けて突き出した。
 オセアニセスの甲板を、断末魔の金切り声のような、人の精神をかきむしる異様な音と共に、罰の紋章から発せられた負の光が激しく包み込む。
 その光に当てられた怪物の脚は、まるで風の前に晒された塵のように、一瞬にして黒い分子に還元し、空中に消えていく。
 命というものの価値をまるで省みない死神の息吹が、これほどの巨体さえ、瞬間のうちに灰塵と変えていく。
 至近でそれを見ている者達にとって、目前で行われているその戦闘とも呼べない【 処刑 】は、まるで一瞬の永遠だった。
 聴覚は完全に機能を失い、視神経だけが目前の状況を脳に送り続ける。
 しかし、その脳が司る思考能力もまた、その機能を激しく減退させていた。
 目前の状況を理解することがやっとだった。

「罰の紋章」の禁忌を完全に解いたマクスウェルの【 処刑 】はなおも続く。
 脚の一本を失ったその持ち主が、ついに、轟音と共に海上にその姿を現した。
 異様な怪物だった。
 長い鼻のついた象のような顔を持つ、凄まじく巨大な蛸、とでも表現するべきだろうか。
 群島で最も巨大な艦であるオセアニセスの大きさを更に凌駕する、まさしく字義通りの意味での「怪物」であった。
 その怪物が、自分の脚の一本を「消し飛ばした」小さな死神の前に姿を現したのだ。
 その怒りを表すかのように、先ほどまでオセアニセスを締め付けていたのと同じサイズの脚が七本も、海面から天空に突き立った。
 再び大パニックに陥った艦橋の騒ぎを完全に無視するかのように、マクスウェルの姿勢は全く変わらない。
 だが、彼の表情は一変していた。苦々しい怒りと、やるせない失望。
 それはまるで、この場の状況を支配している者の表情だった。
 絶望と恐慌が支配するべきこの場には、まったくそぐわない表情だったのだ。

 巨大生物は、この忌々しい船にトドメをささんと、全ての脚を弓なりにしならせた。
 その七本の巨人の鞭が一度に炸裂すればオセアニセスだけではない、この海域に存在する全ての船が砕け散ってしまうだろう。
 だが次の瞬間、船を揺らしたのは、その巨大生物ではなかった。
 マクスウェルの左腕から発生していた禍々しい真紅と黒の光が、まるで巨大な槍のように天空に向けて放たれた。
 これまでにない大きな「悲鳴」が、船員たちの鼓膜を叩く。
 ほぼ同時に、【 マクスウェルの身体 】から発せられた、【 声 】が、あたりに響き渡った。

《 愚鈍。愚鈍! 愚鈍!! なんと見苦しい 》

 その【 声 】はマクスウェルのものではなかった。
 男と女の声が何重にも重なり合った、奇妙極まる、だがこれ以上ないほど巨大で禍々しい音声だった。
 そして、マクスウェルの全身から天空に向けて放たれていた光と音が、徐々に怪物に向けて傾いていく。
 彼以外に、この状況がどういうものなのかを理解している者はいない。光を向けられた怪物さえも。
 怪物は、自分にゆっくりと振り下ろされている光と音の【 刃 】に向けて、三本の脚を絡ませようとした。
 だが、その巨大な脚は、赤と黒の光に触れた瞬間に、黒色の原子を空中に撒き散らしながら、蒸発するように消え散ってしまった。
「罰の紋章」の【 悲鳴 】が、その瞬間だけ、あざ笑うかのような響きを空中に零し落とす。
 こうなると、もう攻撃どころではなくなってしまった。
 怪物とはいえ、思考レベルは動物のそれと変わることは無く、そのもっとも重要とするところは生命の保存である。
 そして、弱者が目前の強者から、とりあえず命を護るためにとる行動は、ひとつしか存在しない。
 怪物は、その自然のセオリーに忠実たらんとした。
 オセアニセスから離れ、逃走しようとしたのだ。
 だが、再びマクスウェルのものではない音声が、マクスウェルから放たれた。

《 逃がさぬ! 》

 マクスウェルの左腕が光に包まれたまま空を薙いだ。
 この世で最も禍々しく、最も巨大な音と光の剣が、怪物を一閃する。
 怪物の巨体が、光における物理的な圧力の存在を実証するかのように凹みながら、黒い塵となって、空気中に還元していく。
 悲鳴とも嗚咽ともつかぬ轟音と荒波を残して、怪物の巨体が消えた。
 オベル艦とラズリル艦三隻を一瞬のうちの叩き割り、オセアニセスを沈没の一歩手前まで追い込んだ怪物が、一瞬のうちに【 蒸発した 】のだ。
 それは、群島解放戦争当時の強烈な記憶を未だに持つ者たちの身体を、震わせずにはいられなかった。

COMMENT

(初:08.11.27)