クォ・ヴァディス 14

3-3

 そうして、四月十六日、午前三時。
 つい一週間前まで同盟者であったはずの二つの艦隊が、握手を交わすためではなく殺し合いをするために、再び見えることになった。
 真夜中の闇の中、意気揚々と出撃したミドルポート艦隊六隻の前に出現したのは、群島の正義の象徴にしてオベル王国海軍旗艦、オセアニセス号であった。
 共をするもう一艦とともに、深夜の暗闇の中とはいえ、その巨体に派手に灯された煌々と輝く多くの明かりは、その威風とオベル側の戦意とを、充分に表していた。

 多くのミドルポート兵がその威容に驚きと感嘆の声を上げる中、ミドルポート艦隊旗艦マルドゥーク号に搭乗する艦隊司令官ヤンセンは傲然と言い放った。

「ふん、深夜の開戦になるようならどれだけ苦労するかと思っていたが、闇の中であれだけ派手に火を灯すなど、狙い撃ちしてくれと言っているようなものではないか。
 連合の盟主たる者の頭はこの程度か! オベル海軍など、ただデカいだけの張子の虎にすぎんぞ」

 胸をそびやかして言う艦長に、大半の部下が同意した。
 同意しない者もいたが、それを切り出せる空気ではなかった。

 実際のところ、ミドルポート艦隊を支配していたのは、三割の緊張と七割の弛緩であった。
 それもやむを得ぬことではあったろう。
 経済力があるとはいえ、一都市に過ぎないミドルポートが、群島に屹立する大国であるオベル王国を屈服させた直後なのだ。
 しかも、そんな彼らに、敵はたった二隻で向かってくるのだという。
 リノ・エン・クルデスは最後の最後に、自殺志願者にでもなったのだ。
 それも、ただの自殺志願者ではない。狂った自殺志願者である。
 このような状況のなかで、士気を上げるなというほうが無理というものだった。

 そんな彼らの目前で、オセアニセス号はその巨体でもって、じわりじわりと前進してくるようである。
 ヤンセンは、顔色こそ日に焼けた普段の浅黒い色をしていたが、その目はすでに勝利の酒に酔っているような波を浮かべていた。
 普段から大言壮語が多い彼ではあるが、このときは特に、狂笑に近い声を張り上げて前方を指差した。

「全艦前進して、あの愚か者どもを海の藻屑としてやれ! これは戦闘などではない、的当てゲームだ。
 取り囲んで適当に撃ち込めば終わるぞ!」

 こうして、司令官の熱狂が乗り移ったかのように、ミドルポート艦隊は前進を開始した。
 六対二。
 三歳の子供でも、どちらが有利であるか一目瞭然であろう。

 戦闘は、このミドルポート艦隊に対して、オセアニセスの右舷から発射された艦砲によって本格的に開始された。
 緩慢に前進してくるオセアニセスと、その脇にくっつくように走るオベルのガレオン船サリシーザに対し、ヤンセンは艦隊を二つに分けて二列縦隊とし、それら二隻を左右から挟み込もうとした。
 彼は性格にはとかく問題ありと思われていたが、司令官としての手腕にはそれなりの敬意と信頼を置かれていた。
 このときも、彼は本人の興奮とは裏腹に、オベル軍から距離をとり、敵二艦の矢面に立たないように慎重に艦隊の向きを模索しながら、じわりじわりとオセアニセスを包囲していく。
 彼は、かつてクールーク海軍で十年にわたって分艦隊司令官を務めた、生粋の軍人である。その経験と手腕を、いかんなく発揮していた。
 そして、その包囲網が完成する直前、思いもよらぬことが起こった。
 緩慢に前進しながらも、戦意だけは豊富と見えて矢や大砲をむやみやたらと乱発していたオセアニセス号が、あきれるほどの性能で逆進し、その包囲をするりと脱出してしまったのだ。
 ミドルポート艦隊の慎重な動きを逆手にとられた形だが、オセアニセス号の艦性能が、ミドルポート側の予想を大きく上回っていたことも影響した。
 オセアニセスは、必死で脱出したもう一艦を引きつれ、あっという間に一キロほど退してしまった。

「おのれ、リノ・エン・クルデスともあろう者が、この期に及んでなんたる往生際の悪さ!
 己の手で死ねぬというなら仕方がない、我らが首吊り紐を用意してやるから、大人しくそこで待っておれ!」

 それまでの興奮に怒りを加えつつ、ヤンセンはさらなる前進を指令した。

3-4

 戦闘開始から二時間が経過し、時刻は午前五時に至る。
 このとき、ミドルポート艦隊指令ヤンセンの怒りは絶頂に達していた。
 あれから戦場では、延々と同じことが繰り返されていたのだ。

 ミドルポート艦隊が慎重にオセアニセスを二列縦隊で挟み込み、いよいよ左右から集中砲撃を開始しようかという直前にオセアニセスは脱出する。
 そして再び前進してくるミドルポート艦隊に対し、まるで嘲笑うかのようにオセアニセスは再び前進し、ミドルポート艦隊に挟撃される直前に脱出してしまう。
 まるで、無能な漁師を嘲笑うウサギのように、オセアニセスはその巨体の全てを使ってヤンセンを翻弄していた。

 無論、お互いに被害が出ていないわけではない。
 オセアニセスからの激烈な集中砲火を受けて、ミドルポート側の一隻が航行不能に陥っていた。
 だがそのオセアニセス自身も、敵側からの集中砲火により、何ヶ所かで火災を起こしていた。
 どれだけ敵を翻弄しても、どうしても距離が近づく瞬間はあり、オセアニセスはその巨体ゆえに、敵からの砲火を避けきれないのだ。
 無論、巨体なぶん頑丈であり、矢や一発二発の砲火で沈むことは無いが、船員の神経を削るには充分な緊張感と言わねばならない。
 更に、三十分ほど前に、オセアニセスと並んでミドルポート艦隊を翻弄していたオベル軍艦サリシーザが撃沈されている。
 既にオセアニセスは、一隻で敵を翻弄せねばならない立場だった。

 オセアニセス艦長マクスウェルの双肩にかかる責任は、一秒ごとに大きくなっていく。
 実際に作戦の指揮を執るのは指揮官であるリノ・エン・クルデスであるが、艦の後退のタイミングを計るのは艦長であるマクスウェルの役目である。
 彼は、服の下を冷や汗で濡らしながらも、表情に焦りを浮かべることは無く、剛毅といってもいい精神力で指示を出し続けている。
 むしろ、脇に控えるミレイのほうが、緊張と恐怖で押しつぶされそうになっていた。

 そして、それを加速させたのが、戦闘開始後一時間半にして、オセアニセスの隣で頑張っていた僚艦サリシーザ号が撃沈された時だった。
 サリシーザは、オベル海軍にあって抜群の機動性を持つ船だったが、それでもオセアニセスの快速についてくることができず、その後退に置いていかれたところを、大砲の集中砲火を受けて、ついに耐え切れなくなったのだった。

 早朝の薄暗い闇の中、真紅の炎を上げつつ、船は沈んでいく。
 その様を見つつ、ミレイは自分の顔から血の気が引いていくのを実感した。
 訓練の途中に模擬船が沈んでいるわけではない。
 軍議の席上で模型の船が沈められたわけではない。
 百人からの人間を乗せたまま、深い海へと本物の船が沈んでいくのだ。
 敵艦からの追い討ちでマストは折れ、船体は木っ端微塵になり、焼けながら沈みゆく船から、まるで埃のように人間がボロボロと海に落ちていく。
 設置されている脱出船で脱出できたものは良いが、それも小さなものだ。全員が脱出できるわけではない。
 残された者たちの多くは助からない。半数が血に飢えた敵兵の餌食となり、半数は海にのまれて、そのまま帰ってくることは無い。
 強制的に与えられる「死」という、これが現実である。
 だが、海に落ちた人間だけが全てではない。船の中で息絶えた者も多くいるのだ。
 一瞬にして死ねた者は、むしろ幸運だった。
 折れた木材を顔面に突き刺した者、鋭く突き出た金属の破片で腹を切り裂かれた者たちは、焼死するか水死するかショックで死ぬまでのわずかな時間、必死に両親や妻子の名を叫び続け、穴の開いた喉から激しく空気を漏らし、腹から飛び出た内臓を必死でかき集めながら、塗炭の苦しみの中で死んでいく。

 ラインバッハ二世が経済活動の一環とし、リノ・エン・クルデスが外交政策の一部とする戦争の、これが現実である。
 彼らは、そうして苦しみぬいて死んでいった者たちの人生を、「死者」という単位で一まとめにしてしまう。
 その中にある幾千通りの人生の重さを、彼らは理解しようと勤め、理解したつもりになって戦争を繰り返し、死者と、その死を悲しむ家族を量産していくのだった。

 だが現場にいる全員が、ミレイのように我を失う時間を与えられているわけではない。
 マクスウェルは瞬間的にリノ・エン・クルデスと視線を交わす。
 リノ・エン・クルデスは、苦渋の表情で首を横に振った。

「艦長! サリシーザが沈んじまいます! 救助を、早く救助を!」

 船員のその悲壮な声に、マクスウェルは搾り出すような声を上げた。

「ダメだ! 今、前進したら、敵に左右から挟みこまれる。
 サリシーザが与えてくれた時間を有効に使うためにも、全力で後退しろ。これは命令だ!」

 それは、サリシーザの船員百名への、死刑宣告文だった。
 サリシーザの船体に残された兵を助けるのは不可能だし、脱出船を収容することも、この速度が最も重要視される作戦の中では極めて難しい。
 一時でも足を止めれば、次の瞬間、オセアニセスがサリシーザの後を追うことになるだろう。
 ミレイは身体を震わせながら、マクスウェルの背中を凝視する。
 自分とさして変わらぬ年齢であるはずのこの艦長は、どのような気持ちで、そんな命令が出せるのか……。
 それを想像しただけで、ミレイは全身を恐怖に包み込んだ。
 ミレイの知るマクスウェルという青年が、好んでこのような命令を出すような人間でないことは、彼女が一番良く知っている。
 だが、そのような命令を出さなくてはならないこの状況と、その状況に耐えられるマクスウェルという人間の双方に、ミレイは恐怖を覚えてしまったのだ。
 無人島の戦闘で死んだミレイの四人の部下に対して、心からの詫びを告げたときの彼と、百人からの同胞の命を海に投げ捨てるかのごとき発言をした今の彼は、果たしてどこが違うというのだろう。

 これが軍人という「職業」の「仕事」なのだ。
 誰かにとって素晴らしい友人であるはずの一人の軍人は、同時に他の誰かにとっての確固たる敵であるのだ。
 喉の奥に湧き出る異様な感覚に足を奮わせながら、ミレイは真っ青な顔で立ちすくむ。
 軍人という存在のやるせなさ、罪深さを、彼女は初めて心底から実感していた。
 だが、次に死ぬのが自分かもしれないという恐怖の中、誰も彼女を助けてはくれない。
 マクスウェルでさえ、艦の指揮に手一杯で、普段の優しい笑顔をミレイに向ける余裕などありはしなかった。
 常軌を逸したこの状況の中で、オベル王国軍の将軍の一人であるミレイは、自分の足で立ち、他者の死を見届け続けなければならない。

3-5

 だが、サリシーザの犠牲が生きて、戦況は刻々とリノ・エン・クルデスの思惑通りになりつつある。
 繰り返し翻弄されたヤンセンはすっかり冷静さを失い、それに引きずられるかのように、ミドルポート艦隊の動きは目に見えて雑になっていた。
 全力で逃げ回るオセアニセスを追うのに躍起になり、戦闘開始直後には綿密な包囲だったはずの作戦は、いつの間にか五対一の追いかけっこになっていたのだ。

 そうして戦闘開始から三時間、ヤンセンが我に返ったとき、ミドルポート艦隊はオベル島から十七キロも引きずり出され、しかも艦列はバラバラに伸びきってしまっていた。

「いかん! いったん後退して、艦列をまとめろ!」

 相手はたったの一艦であるが、元軍人としての直感が彼に危険を告げていた。
 思えば、オセアニセスほどの船が、理由もなく三時間も逃げ続けるなど、不自然すぎるではないか。
 ようやく優秀な司令官としての顔をヤンセンは取り戻したが、それもわずかに遅かった。
 オベル島から遠く離れ、ミドルポート艦隊の動きが乱れたこの無秩序な状態こそ、リノ・エン・クルデスが待っていたものなのだ。
 リノ・エン・クルデスは、オセアニセスの艦橋から逆転の命令を飛ばした。

「今だ! 待機している部隊に連絡! 作戦通り、全艦でもってミドルポート艦隊を包囲撃滅せよ!」

 ヤンセンは愕然とした。
 オセアニセスの甲板から火矢が打ち上げられたかと思うと、果たして今までどこの島影に隠れていたのか、闇に潜んでいたのか、オベル海軍の船がいきなり自分たちの左右から出てきた。
 そして、ミドルポート艦隊に砲撃を開始したのだ。
 しかも、その数が多い。
 どうやら、報告ではラズリルに帰還したはずだったラズリル艦隊が、報告に違えて居残っていたようなのだ。

「してやられたか!」

 空中からの視点で見ると、戦場にある船の配置は、ちょうど「川」の字に近い。
 真ん中の一本、つまりミドルポート艦隊が乱れているが、それを両側から挟み込む連合艦隊の艦列は、実に整然としている。
 ヤンセンは下唇を血が出るほど強く噛んだが、今更悔やんでも始まらぬ。
 彼は苦々しい表情のまま苦々しい声で撤退を指令した。
 だがこれは、この場においては最も出してはいけない指令だった。

 この時代の大型の軍艦は、殆ど例外なく左右の両舷に砲列を搭載しており、左右への破壊力はあったものの、前方、及び後方への武装を施している軍艦はほとんど存在しない。
 このため、直接的な艦隊戦ということになると、どうしても艦を縦に並べて腹を見せ合いながらの砲撃戦になる。
 このときヤンセンが出した指令は、その左右両舷の砲列をこれでもかと見せている敵の目の前で、艦を回頭させるというものだった。
 当然、転舵するときに艦の動きは鈍くなるし、無防備な艦首と艦尾が敵の砲門の前に「撃ってくれ」と言わんばかりに晒されてしまう。

 当然のように、わざわざ弱点を晒している敵に対して、連合艦隊は好きなように攻撃した。
 追う者と追われる者、包囲する者とされる者の立場が、一挙に逆転した。
 ほとんど壊乱といっていい無様な様で逃走するミドルポート艦隊に、オベル・ラズリル連合艦隊は、好きなように砲撃し、追い掛け回し、復讐の権利を思う存分に行使した。

 特に、オセアニセスの艦長マクスウェルと、ラズリル艦隊旗艦ヤム・ナハル艦長ケネスの連携は素晴らしいものがあった。
 かつてガイエン海兵学校で共に学んだ両者は、ほとんど精神の波長に近いレベルで艦列と砲列をそろえ、狼狽する敵艦一隻に対して怒涛の如く一挙に砲火を浴びせて撃沈し、次の獲物を砕きにかかる。

 このときヤンセンは、艦隊の向きを変えて後退するのではなく、そのまま全速で一気に突進するべきだったのだ。
 敵の縦列陣の中央を突破し、その攻撃範囲から脱してから向きを変えれば、改めて連合艦隊との正面対決もできたのである。
 だが、今更それを理解したところで、すでに時期を逸している。
 マクスウェルとケネスの連携攻撃によってさらに一艦が撃沈された。

 これで戦況は三対七。
 完全に勝負は決したかに思えた。リノ・エン・クルデスもマクスウェルも、そしていくらか血の気を取り戻したミレイも、そう思った。
 もちろん、これで全てが終わるわけではない。まだオベル島には出撃していない敵の二艦が残っており、更に島にはミドルポートの陸戦部隊も残っているだろう。
 だが、この戦闘の勝利は、この戦争全体の状況を決定付けるほど大きなものになるのは間違いない。

(―――勝った!)

 リノ・エン・クルデスは勝利を確信し、心中で拳を振り上げた。

 だが―――。
 彼の想像もしない形で、再び戦況は激変する。


「マルドゥーク」
「太陽の雄牛」という意味の名を持つシュメール神話の創造神で、水神エアの子。
 原初神の一人ティアマトを打ち倒し、その身を切り裂き放り投げて宇宙(天地)を創造した。
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(初:08.11.27)