クォ・ヴァディス 11

2-7

 四月十五日。
 オベルとラズリルの連合艦隊の旗艦に、情報という名の爆弾が落とされてから三日が経っていた。
 ナ・ナル島に向かっていたときは、天を突くほどに上がっていた艦隊の士気は、雨散霧消してしまったわけではないが、殆どが困惑に変貌していた。
 リノ・エン・クルデスは航路反転の理由を、このときはまだ公開していなかったし、オベルまで戻らず、十キロ地点で待機という命令も、いかにも中途半端だった。
 だが、今はこれが限界だった。
 ミドルポートの裏切りとオベル占領は、この時点では彼らにとってはまだ未確認情報でしかなく、公然と発表できなかったのだ。
 もし発表したとして、それが事実であれば大問題だが、事実でなくても問題が生じる。
 もしもミドルポートが裏切っていないのに、裏切ったと思い込んだオベル・ラズリル連合艦隊に踏み潰されたとあっては、オベルの信頼はそれこそ地にもぐって、二度と上昇することはあるまい。

 リノ・エン・クルデスは、まず偉大と称してよい国王であったが、だからと言って、なんでも自由に放言できるかといえば、決してそうではなかった。
 地位の上昇が、表現の範囲を広げるとは限らない。むしろ、言ってはいけないことが増えてしまうのが常であった。
 彼の一言が外交関係を揺らし、兵士の士気を上下させるとあらば、言葉ひとつに慎重になるのも当然であった。

 オベル島から十キロの地点で全ての船が碇を下ろしたとき、時刻はすでに真夜中になっていた。
 だが、関係者は誰も眠ることなく、旗艦オセアニセス号の会議室に疲れた顔を並べていた。
 その場には、先日にはあった二つの要素が無い。
 ひとつは余裕に満ちた空気であり、もうひとつはラインバッハの姿である。
 そのどちらの欠落にも、誰も言及しなかった。
 表面上、その場にいる者は落ち着きを保っていたが、内面に嵐を抱えていない者はいなかった。
 オベル本島の現状を確認するために先行させた二隻の高速艇が戻ってくるのを待っているのだ。
 現状で彼らが手腕を発揮する機会は殆ど無い。
 正確な情報を得ずに暴走するの愚は、誰もが理解していた。
 だが、理解しているがゆえの焦慮が、彼らの内部の嵐をより大きくしていた。

 作戦室では、マクスウェルとケネスを中心に、ミドルポート艦隊との戦闘についての討議がなされていた。
 ミドルポートによるオベル占拠が事実だった場合、採るべき道は二つだ。
 その場でミドルポート艦隊と決戦し、これを撃滅してオベルを奪還するか。
 それとも、一度は撤退し、奪還の準備を整えながら機をうかがうか。

 前者の場合、もしも艦隊戦に突入したとしても、オベル・ラズリル艦隊の不利はぬぐいようも無い。
 彼らの物資には限界があるが、ミドルポート側は奪ったオベル本島の豊かな物資を使うことができる。
 こう着状態におちいり、消耗戦に突入することにでもなれば、物資を食いつぶして先に海の藻屑に消えるのが自分たちのほうであることは、火を見るよりも明らかだ。
 それだけは絶対に避けねばならない。

 そのときのために、マクスウェルとケネスによって二段重ねの作戦が立案された。
 第一段階として、夜陰に乗じた奇襲を敢行する。
 オベル占領が事実であるとしても、制圧からそれほど時間が経っているわけではない。
 まだ、ミドルポート艦隊にもオベル本島にも動揺はあるであろう。その動揺の隙をついて、ミドルポート部隊に逆奇襲をかけるのだ。
 この場合、当然だが準備に時間はかけられない。
 作戦の開始に手間取ってしまうと、それだけミドルポート側に防備の準備の時間を与えてしまう。ミドルポート側がそうしたように、相手の不意を突くのが上策である。
 もっとも、自らそれを最上のかたちで遂行したミドルポート側が、それへの対策をしていないという可能性も考えにくいし、なによりもオベル本島自体が、自然の要害であることも忘れてはならない。
 オベル王国本島は火山性の溶岩島であり、複雑に隆起した巨大な岩の間を縫うように平地が散在している。
 その平地の間は、岩を削った、人一人が通るのがやっとという隘路しか通っておらず、非常に攻めにくく、実に守りやすいよう、計算され尽して建設された防砦都市なのだった。
 事実、完全に意表をついて、オベル側に防備の隙を与えなかったミドルポート軍も、数にして半分でしかないオベル守備隊に粘りに粘られ、占領には成功したものの、予想以上の被害者を出している。
 もしもミドルポート側に、オベル本島での篭城作戦を効率的に行われたら、数にして劣ると思われる連合艦隊には為す術がなくなるといってよい。
 オベル本島の地理の知識がこちらにあることを生かして、果断速攻することが最低条件である。

 そして、もしも艦隊戦になった場合の戦法が、包囲殲滅戦である。
 ミドルポート艦隊をできるだけ島の沖まで誘い出し、全艦艇でもって包囲、集中射撃によって一気に全滅に追い込むのだ。
 これは、連合艦隊が艦隊戦でとることができる、ほとんど唯一の作戦だった。
 正面から力のくらべ合いをするには、時間も物資も、彼らには不足していた。
 本拠地を奪われた「後が無い」というあせりも、少なからず士気に影響するだろう。

 以上の、急な戦闘行為をとりあえず避けて、後者の撤退案を採用した場合も、一概に万全とは言いがたい。
 オベルを奪われた彼らが拠るべき地といえば、ケネスの本拠であるラズリルしかないが、それには地理的問題があった。
 ラズリルは、【敵】の本拠地であるミドルポートから近すぎるのだ。
 その距離は、一般航路にして一日しかかからない。高速艇の存在を考えれば、指呼の距離と言ってよい。
 マクスウェルは、三週間前の事件を思い出さずにはいられない。
 ナ・ナルから多くの「フレア王女暗殺部隊」が、遠い距離を隔てたオベルに潜入していた事件である。
 もしも、ナ・ナルとミドルポートが裏で結託していたのだとしたら、至近の距離であるミドルポートから、ラズリルに対してどのような暴挙が行われるか、想像もできない。
 そして、ケネスをはじめとしてラズリル艦隊の主力のほとんどがここに集結している、まさに今現在、それがラズリルに対して行われていないという保証も無かったのだ。

 マクスウェルとケネスは当初、これらの二案の危険性を重んじて、「第三の案」をリノ・エン・クルデスに提案した。
 すなわち、ミドルポート艦隊に占領されたオベルを素通りして、【敵】の本拠地であるミドルポートを一挙に攻め落とす、というものだ。
 これならば、上手くいけばラズリルに残っているカタリナとの挟撃作戦も可能だし、ラズリルの安全も保障される。
 しかも、ラズリルのものに加え、ラインバッハ二世がためこんだミドルポートの豊かな資金と物資とを奪うこともできる。
 まさに一石二鳥の作戦にも思えたが、リノ・エン・クルデスはこれを拒絶した。

「オベルをどのように「素通り」するかが、最大の問題だ。
 オベルの近くを通れば、ミドルポート艦隊に背後から襲われる可能性がある。
 かと言って、大きく迂回するには日数がかかりすぎる。それだけの食料物資は、わが軍には無い。
 それにだ。
 首尾よくミドルポートまでたどり着き、ミドルポートを占領しえたとしても、それではオベルを占領したミドルポート艦隊となにも変わらないではないか。
 我々が自ら望んで盗賊の汚名を被っているのだと、周辺諸国に思い込まれては、我らの信用は二度と戻るまい」

 苦みばしった顔で、今や亡国の王となったリノ・エン・クルデスは言った。
 このあたりが、為政者としてのリノ・エン・クルデスの清廉さであり、同時に限界でもあったかもしれない。
 彼は、例えばラインバッハ二世のように、割り切ることができなかった。戦争は即ち悪である、という観念から脱することができなかった。
 外交手段のひとつとしての戦争には、その価値を認めてはいても、それを肯定的に受け止めることはできなかったのだ。
 戦争の失敗を政治が補うことはできても、政治の失敗を戦争で補うことはできない。
 そもそもが、戦争で穿たれた心身の傷跡を癒すのは簡単ではない。それは、人であろうと国家であろうと同じである。
 だからこそ、戦争とは、存在そのものが度し難いものなのだ。
 ラインバッハ二世のように「戦争を利用する」という考え方は、リノ・エン・クルデスには馴染まなかったのだ。
 これは、リノの美点のひとつであったろうけれども、それが政治家としての美点に、直接的につながるかといえば、残念ながら否であった。
 二人は同じ精神世界の住人などではなく、お互いを認め合うことはできないだろう。
 恐らく、その機会があったとしても。

 当たり前のことだが、どの作戦を採るにしても、危険はついてまわる。
 リノ・エン・クルデスが指摘するように、オベルからのミドルポート艦隊の追撃を想定すれば、簡単にラズリルやミドルポートに向かうわけにもいかず、結局は現有戦力でミドルポート艦隊を撃破するしかない。
 それも、正体不明の「援軍」を含む、数を確定できない艦隊を相手に、である。
 リノ・エン・クルデスは、三十分後の再開を命じて会議を散会させて自室にこもったが、マクスウェルとケネスは、会議室のある第二甲板から上層の第一甲板へのぼり、マクスウェルの私室である艦長室に場を移して、論議を続けた。

「リノ陛下はかなり焦っておいでのようだな。二年前と同じ状況のようで、より深刻なせいか……」

 腕を組んで、ケネスがため息をついた。
「二年前」とは、オベル王国が敵対していたクールーク艦隊に占領されたときのことである。
 マクスウェルにも、彼のため息が伝播した。上半身を大きく波打たせて、息を吐き出した。

「そうだな。あの時は、一時的に占領されることを前提に国を脱出したし、努力次第で周辺諸島が味方につくだろう、という希望的観測もあった。
 だが、今回は違う。味方と思っていた者に突然裏切られたのだし、ナ・ナル島はもちろん、ラズリル以外の周辺諸島が味方につくという保証もない」

「それに加えて、ミドルポートに近いそのラズリルが、現段階で無事である確証もない、か」

 それは、ケネスにとっても現在、本拠地が存在しないことと、ほぼ同じ意味であった。
 ラズリルが無事である、という確実な情報が存在しない限り、彼もオベル軍と共に無宿に甘んじるしかないのだった。
 現在の彼らがなによりも欲しいものは、まず確実な情報であった。しかも、正しい情報が、である。
 彼らは若輩とはいえ、なんの情報も無しに思い込みでことを進めることの危険性を熟知していたから、暴発するわけにもいかなかったのである。
 オベル島はいまどうなっているのか。
 ミドルポートが敵に回ったとして、どのくらいの戦力を有しているのか。
 その艦隊は、どこに布陣しているのか。
 ミドルポートとナ・ナルは連携しているのか。
 とにかく情報が欲しかった。
 ラズリル、ネイ、イルヤと、あらゆる方向に情報収集の手を伸ばしてはいたが、短時間で確実な返答をもたらすことは不可能だった。
 マクスウェルが呟いた。

「「罰の紋章」を脅しに使って、敵を交渉のテーブルにつかせることができないかな」

 聞いたケネスは、眉間にしわを寄せるのと、目に厳しい光を浮かべるのを同時にやってみせると、数瞬、彼の親友の顔を 凝視した。
 本気なのか冗談なのか、判断しかねているようだった。
 ケネスは、マクスウェルが「罰の紋章」で苦しんでいることを、誰よりも理解している人間のひとりだったから、彼自身がそのような提案をしてくることを、予想できなかったのだ。
 逆に言えば、マクスウェルもそれだけ焦っているのだ。
 自覚しているかどうかはあやしいが、追い詰められているのは、なにもリノ・エン・クルデスひとりではなかったのである。
 口には出さなかったが、特にマクスウェルの心中には、オベル残したままのジュエルのことが重く横たわってもいる。
 ケネスは何かを語ろうとして一語を飲み込んだ後、改めて口を開いた。

「恐らくは無駄だろうな。その紋章を恐れるのならば、彼らのほうから交渉を申し込んでくるさ。
 ラインバッハ二世は、群島でも飛びぬけて嗅覚の利く人だ。少しでも自分に不利な材料があるうちは、決して動かない」

 それに、この方法が失敗すれば、マクスウェルは本当に罰の紋章を使わざるをえなくなる。
 かつて、クールーク艦隊を「消滅」せしめ、エルイール要塞を崩壊させた、この紋章の強大な力を、親友の愛するものの多くあるオベルに向かって使わなければならなくなるのだ。
 ケネスにとって、それだけは絶対に避けねばならなかった。
 使わなくてすむのなら、破壊の力など使わないほうが良いに決まっている。
 オベルのためではない、マクスウェル自身のために……。
 自分の軽率さに気づいたマクスウェルが、少しだけ視線を空中に浮遊させたが、別のことに思い立って、言葉を荒げた。

「じゃあ彼らは、罰の紋章を恐れる必要がないと?」

「完全な対策があるかどうかはわからないが、少なくともそれに近い状況にはあると思う。
 でなければこうも表立って裏切り行為は行わないだろう。
 ナ・ナルにしてもミドルポートにしても変わらないが、オベルに対して牙を突き立てるとして、最も警戒するべきは、オベルの軍事力と、お前の「紋章」だ。
 さっき言ったことにも関連するが、ラインバッハ二世は確実に有利になる状況でなければ動かない人だ。
 それがこうして動いたということは、そのどちらに対しても対策が成っていることを示しているとは思わないか」

 ケネスの見解は正解に近かったが、それでも八十点というところだった。
 ひとつには、ラインバッハ二世は、確かに「確実に有利になる状況」でなければ動かない人ではある。
 けれども同時に、金と口を駆使して、「確実に有利になる状況」を「作り出す」こともできるのだった。
 ケネスもマクスウェルも、軍人として政治家として、若さと大きな可能性に溢れた俊英ではあったが、それは将来の成功を約束するものではあっても、現在の成功を約束するものではない。
 現にして、ケネスはラインバッハ二世の老獪さを完璧に見抜くことはできていない。
 ケネスとマクスウェル、そしてラインバッハ二世。この両者の間にある「政治的経験」という時間の溝は、実に四十年におよぶ。
 ラインバッハ二世にしてみれば、マクスウェルやケネスごとき青二才など、初めから視界にも入っていなかったのだ。

 そしてもうひとつ、これはケネスもマクスウェルも、リノ・エン・クルデスでさえ想像できないことであったろうが、ラインバッハ二世は、「罰の紋章」の無効化の目処がたったからオベル占領の挙に出たのではない。
 むしろ事実は逆であって、【その無効化の目処を立てるためにオベルを占領した】のである。
 これは、ラインバッハ二世本人、もしくは、彼に近しい者でなければ知らぬ事実ではあったが……。

 どちらにしても、オベル側にとって、喜ばしい認識ではなかったことは確かである。
 その直後、物見に出ていた高速艇が、ミドルポート艦隊のオベル占領が事実であるとの情報を持って帰ったことを、ミレイが二人に告げたが、それは二人にとって、事実の追認に過ぎなかった。

 その報告を受けたリノ・エン・クルデスは、即座にミドルポート艦隊への奇襲を決意した。
 いつまでもオベルから十キロしか離れていないここに船を係留しておくわけにもいかなかったし、艦隊戦をしかけるなら不意を突いたほうが良い。
 なによりも、豊富とはいえない物資の量が彼らに速攻即決を迫っていた。
 楽な戦いではない。
 そう思わない者は、事実を知っている者の中にはいなかった。

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(初:08.09.08)