クォ・ヴァディス 10

2-5

 そのとき、オベル本島にいったいなにが起こったのか、正確に理解している者は、少なくともオベル側の人間にはいない。
 何が起こったのかもわからず、気がついたときには既に戦闘状態に入っていた。
 そして、ミドルポート艦隊が攻撃してきているのだとわかったときには、既に攻め込まれ、市街を放棄しつつ、戦線を縮小しているときだった。
 それほど、彼らは意表を突かれたのだ。
 マクスウェルから奇襲の可能性を諭され、充分に警戒していたつもりだったが、まさか信頼して背中を預けていた者に、こともあろうに背中からナイフを突き出されるとは思ってもいなかったのである。
 オベルの守備を任されていた者たちは、苦々しい認識に口を歪めつつ撤退を重ねたが、後悔できるだけ、まだ彼らは恵まれていたのかもしれない。
 多くの者が、現世で後悔する機会すら、永遠に失っていたのだから。


 それでも、オベルの守備隊は奮戦した。
「敵兵」であるミドルポートの陸戦部隊の予想以上の多さに驚きながらも、彼らは難攻不落のオベルの地の利を生かし、果敢に突出と偽装の撤退とを繰り返し、敵側を混乱させ、徐々に出血を強いた。
 特に、近衛指令官トリスタンの落ち着いた用兵術と、オベル軍の剣術師範であるジェレミーの活躍は目覚しかった。
 ジェレミーは、作戦指揮をトリスタンにゆだね、自らは率先して敵に切り込んだ。
 それまで腕力一辺倒だったオベルの戦闘技術に、革命をもたらした、とまで言われる彼の剣技である。
「流撃剣」と自称するその剣技は、その名に恥じぬ冴えと美しさを見せた。
 まるで流れるように剣は「空気を滑り」、次々と敵を切り倒し、その穢れた血で剣先と大地とを染めた。
 ジェレミーは怒りの咆哮を天に向けて叩きつける。

「おのれ、ミドルポートの恥知らずどもめ! この醜悪極まる愚行を、いったい誰に対して誇るつもりか! 今すぐその命であがなわせてやるから、かかってこい!」

 端正な細面と、白に近いグレーの長めの髪を血に染めて咆哮する様は、まさしく悪鬼そのものであった。
 一時ではあったが、その怒りは確かに敵軍の前進を止めて見せたのだ。

 だが、状況は個人の武勇で解決できる範疇を超えていた。
 オベル守備隊はよく戦ったが、不意を突かれた最初の一撃の被害が予想以上に大きく、既にして逆転できるレベルではなかった。
 それに、どこからわいてくるのか知らぬが、減ることを知らないミドルポート兵が、逆にオベル兵を圧倒し始めた。
 ミドルポート艦隊がこの地に駆けつけたときには、その兵力は、オベルの守備兵力とほぼ同じだったはずである。
 だが、実際にして現在、その数は明らかにオベル側よりも多勢であった。
 意味がわからないが、意味をどうこうと詮索する状況ではなかった。
 オベル側は、戦闘時間に正比例して兵力を減らしていった。

 まずミドルポート側に占拠されたのは、オベルの玄関にしてもっとも重要な施設である港だった。
 つまり、オベル側は、一番最初に、いきなり心臓を奪われたも同然だったのだ。
 その後、まるで山麓から山頂にかけて野火がじわじわと延焼していくように、その占領範囲が広がってゆく。
 指揮を執るトリスタンは、市街を守ることに固執して全滅することを恐れ、突撃と撤退とを繰り返して必死に時間を稼ぎながら、市民を高台に避難させ、市街を順次放棄していった。
 その指揮は、神技とは言えぬまでも、充分に妙技とは表現できたであろう。
 突撃する場所や撤退するタイミングなどは絶妙を極め、敵側になかなか的を絞らせなかった。
 だが、それにも限界がある。
 そもそも、兵の数からして違うのだ。
 今のままの状況が続けば、オベル側はじわじわと打ち減らされて、ついには消滅するだけであろうことは、誰の目にも明らかだった。
 いずれかのタイミングで、このオベル本島自体を放棄しなければならないかもしれぬ。
 二年前の解放戦争当時、クールーク第一艦隊にこの島を占領され、さらには後に力を盛り返して王国を奪還した経験からもわかるとおり、オベルは自らの死と滅亡とを美化する、悪趣味なナルシシズムとは、完全に無縁である。
 それは、リノ・エン・クルデスがラインバッハの自殺を思い留めさせた言葉からも伺える。
 生きてさえいれば、どんな可能性でも転がっているものだ。
 死んでしまったら、その可能性すら失われてしまう。

 さて、後日に報復を誓うとしても、そのためには、とにかく生き残らなくては話にならない。
 それも、敵に最大限の出血を強い、しかも味方の被害を最小限に抑えつつ、である。
 考えるだけならば、簡単であった。
 だが、実際にそれを決断するトリスタンの双肩には、重い責任が圧し掛かる。
 彼の舌端には、オベル兵とオベル島民、約三万人の命がかかっているのだ。

(――――だが!)

 トリスタンは、自分が思っている以上に豪胆な性格なのかも知れない。
 ことここに至って、心臓を胸の中で飛び跳ねさせながらも、逃げ出しもせずに冷徹にタイミングをはかる自分の姿がある。
 彼には確かに、ミレイと同種のプライドを感じていた。
 二年前のことだ。今の自分以上の重責を負わされながら、それを完遂してみせた少年がいる。
 確かに、英雄と凡人とでは、埋め尽くせぬ深い差があるかもしれない。
 だが、彼とて生まれながらにして英雄だったわけではない。
 人間は、「英雄として産まれてくる」のではない。偉業の結果として「英雄になる」のである。
 それも、自分に可能なことを必死に行い、最大の功績を上げた者が「英雄」となる。
 自分にできないことを強引に行い、偶然に成功を拾っただけの者は、決して「英雄」とは呼ばれない。
 トリスタンとて、男であり軍人である。極端な名誉欲ではないが、どこかで「英雄」と呼ばれたい願望があるのも確かだ。
 そしてそれは、決して絵空事ではない。自分の目の前で、一人の少年が「英雄」への道を登りきった様を、実際に見ている彼なのだから。

 もちろん、今はそんなことを悠長に考えている時間は無い。
 意識の底に、深い流れとして存在しているのみである。
 だが、それこそが、通常の状態ならば押しつぶされそうなこの状況にあって、彼をして正気たらしめている原動力であった。
 トリスタンは想像を絶する状況を見つめ、味方と敵の戦況の報告を冷静に分析しながら、次々と新たな指令を出していく。

 そしてついに、悪鬼の如く敵を打ち倒し続ける前線のジェレミーの元にも、トリスタンからの撤退指令が届いた。

「馬鹿な! 今ここを放棄して、どこへ行くというのだ。我々はオベルを護ることが全てだろう!」

 叫んではみたが、それが非現実的な「強がり」であることは、彼自身にもわかっていた。
 ジェレミーの精神にも、「滅びの美学」を礼賛する要素は、一ミリグラムも存在しない。
 彼には、自分だけでなく、部下の命を預かる責任があったのだから。
 ジェレミーは、華麗に舞う剣戟で二名の敵を斬り殺し、再び咆哮した。

「覚えておれよ、恥しらずども。
 いつか必ず、我らがオセアニセスの甲板を、貴様らの穢れた首で飾り立ててやるからな!」

 彼のこの口の悪さは、この戦いが始まるまで、誰も知らぬものだった。
 どうやら興奮が過ぎると、彼はその細面や華麗な剣さばきとは正反対の、過激な性格になるようだった。
 彼の部下のうち何人かが、自分の上司を怒らせるのは極力やめようと決意したが、それも、この絶望的な状況を生き残って後のことである。
 更に雄叫びを上げつつ、ジェレミーは部下を指揮して撤退を始めた。
 青い海と空に包まれたオベルの市街はいまや、敵兵の攻撃や砲撃で、血と炎の赤色に染め上げられていた。

 オベル王宮まで全軍を撤退させたとき、トリスタンとジェレミーは、生き残った味方の少なさに愕然とした。
 下手をすれば、ミドルポート軍に全滅させられる一歩手前だったのだ。
 それだけ、奇襲に動揺した兵で戦うのは難しいのだ。
 一人冷静でいたつもりのトリスタンは、やや遅すぎた撤退を悔やんだが、いまさら悔やんだところでどうにもならぬ。
 オベル本島で最も高台にあるこの王宮からは、この島の主だった部分を見通すことができる。
 そして、ふと港を見下ろしたジェレミーが、驚くべきものを発見した。

「トリスタン殿、確かミドルポート艦隊は四隻のはずだったよな」

「ああ、そうですが」

 疲労を充分に蓄えた声で、トリスタンは答えたが、ジェレミーが指差した方向を見て、彼も愕然とする。

「ならばだ、あの八隻の船はなんだ。残りの四隻はどこからあらわれた?」

 そこには、オベル港に無粋にも接岸し、ノミの子供のように増え続けるミドルポート兵の姿が見えていた。
 あらわれた?と訊かれたところで、トリスタンに応えられるはずが無い。
 だが、自分たちの圧倒的な不利を再確認せずにはいられなかった。
 結果的には、徹底した覚悟を欠いていた自分たちの敗北なのだ。
 トリスタンは、すぐに決断した。彼は全兵を集め、最後の指令を出した。

「現時刻をもって、我々はこの島を放棄する。心苦しいが、いつか再起の日もあろう。
 それぞれ、脱出する者は脱出し、降伏する者は降伏せよ。
 脱出する者は、同じく脱出を望む住民の安全を最優先にすることを忘れるな」

 生き残ったオベル守備隊は、殆どが脱出を決意したが、その数は、わずか四半日前、戦闘開始前の全兵力の、四割弱にまでうち減らされていた……。
 トリスタンはジェレミーとセツに向き直った。
 政治には手腕を持つが、戦闘に関して知識の無いセツは、戦闘指揮をトリスタンに託し、自らは雑用に徹していた。

「さて、セツ様、ジェレミー将軍、お聞きになったとおりです。この島を放棄いたします。
 私は残って時間を稼ぎますが、お二人はどうされますか」

 小柄なセツが、重苦しい表情に、これだけはたいへん立派な鼻髭を揺らせた。

「防備の最高責任者は私だ。
 私が残らぬことには、敵に対して申し開きもかなうまい。
 年長の者から責任を被るのが、ものの道理というものだ」

「な、ならば俺も……」

 進んで言いかけたジェレミーを、トリスタンが諌めた。

「あなたは脱出してください、ジェレミーさん。
 あなたは敵兵を殺しすぎた。
 責任の所在が明らかになれば、まずあなたが怨恨の祭壇に捧げられることは疑いない。
 それに、誰かが事件を外に伝えねばなりません。
 我々も死ぬつもりは毛頭ないが、あなたは脱出して、国王陛下に合流してください。
 リノ・エン・クルデス陛下なら、そしてあのマクスウェルならば、必ずなんとかしてくれるでしょう」

「…………………………………………」

 この状況に似合わぬほど落ち着いたトリスタンの声と表情に、ジェレミーは必死の覚悟を見た。
 自ら死ぬつもりはないかもしれぬ。だが、生き残れる可能性が低いことも、誰もが理解していた。
 だが、ジェレミーは決断した。
 情に溺れて全員が死んでしまっては、なんの意味も無いのだ。
 ジェレミー自身にとっても、悲壮な決断だった。
 無言のまま二人の顔を見つめると、深々と頭を下げ、そして走り去った。
 それを見送りながら、トリスタンは部下に指令を出す。
 もしもジェレミーに何かが起こり、リノ・エン・クルデスの元に到達できなかったときのために、複数の部下を連絡役として脱出させた。
 誰か一人でも国王の下にたどり着けばよい。

 セツが、高台から島を見下ろす。島のあちこちで火が上がっている。
 ミドルポート軍が、残党狩りを始めたのであろう。
 その残党の殆どが王宮に集まっていることは、すぐに敵に知れる。
 残存兵の脱出は、まさに間一髪だったのだ。
 島を守ることはできなかったが、ジェレミーとトリスタンは最低限の仕事をしてくれた。
 六割以上の兵が二度と還らぬこととなった責任は、最高責任者を任されながら、その責を果たせなかった自らに帰する。
 そのことを、セツ自身が痛烈に自覚している。

 二年前の、あの戦争のときと同じだった。
 自分は何も出来なかった。
 結局は、罰の紋章を持つあの青年に、全ての責任を負い被せることしか出来なかった。
 どうも、今回もそうなるらしい。
 もう既に、オベルの歴史書に自分がつづるべきページは、尽きてしまったのかもしれない。

「案外、最後とはこういうものかもしれないな」

 だが、死ぬにしても、全ての責任を放擲して死ぬわけにはいかない。
 ここで自殺してしまったら、全てから逃避したことになってしまう。
 リノ・エン・クルデスとマクスウェルに後日を託すとしても、セツの死は、オベルの責任を全てあがなうものでなければならぬ。
 国王陛下の期待に応えられなかった責任。多くの兵の命を天に送ることになってしまった責任。
 それら全て罪を、セツは背負って死なねばならなかった。
 それらを有耶無耶にしたままでは、後日の再起も、肝心の要を失ったままの、中途半端なものとなってしまうだろう。
 それを理解したとき、彼の心身は、驚くほどの静寂と安定に包まれていた。
 そして、その命を死神の顎(あぎと)に叩き込むであろう敵兵たちの怒号は、王宮のすぐ下まで迫っていた。

2-6

 ミドルポート領主であるシュトルテハイム・ラインバッハ二世が、オベル港にその姿を現したのは、その日の夕方、ミドルポート艦隊のオベル島完全制圧から二時間が経過した頃である。
 既に市街の延焼は消し止められ、投降者や捕虜はまとめられて、新たな支配者の検断を待っている。
 戦闘は、完全に停止していた。

 シュトルテハイム・ラインバッハ二世は、ややくすんだ金髪を長く伸ばした、中背で小太りの貴族男性である。
 少なくとも容姿からは、彼の威厳を感じることは困難だった。
 そのファッションセンスは、オベル王国の旗艦に搭乗した息子ほど奇抜ではないけれども、一般の美的感覚から言えば、充分に派手なものだった。
 息子は奇抜な衣装で身を飾ることを好んだが、父親は豪華な宝石やアクセサリーで身を飾ることを好んだ。
 周囲からは、決して趣味の良い人物として見られていたわけではないが、それでもその豪華な身の飾り方は、ミドルポートの経済的な豊かさと安定を物語るものだった。

 そのラインバッハ二世は、上陸部隊の責任者に先導され、十数人の部下を引き連れて、オベルに上陸した。
 彼の元には次々と新しい報告がもたらされたが、彼はほとんどそれに関心を示さず、歩きながら軽く頷くだけだった。
 それは、彼の息子の安否について報告されたときも同様だった。
 彼の息子はミドルポート艦隊を離れ、オベル艦隊旗艦に同乗している。
 そう聞かされても、彼はの口から出たのは、「ふむ」という、極めて無関心な一言だけだった。
 まるで、多大な興味を持っている事項が別にあり、それのことばかり考えているような、そんな雰囲気だった。

 それでも、オベル王宮まで足を運んだとき、彼の表情に変化があった。
 ラインバッハ二世は、夕日を背にしてたたずむオベル王宮を正面から見上げ、口の端を吊り上げて笑ったのだ。
 どちらかといえば、不健康的な印象の強い笑いだった。
 実際、彼はすがすがしい思いに囚われていた。
 二年前。この田舎くさい、「王宮」とは名ばかりの安っぽい館の前に引き出された彼は、ナ・ナルの島長やネイの島長とともに、リノ・エン・クルデスの若造に見下されながら、「群島諸国連合設立」などという、下らぬ宣言の茶番に付き合わされたのだ。
 それ以降、まるで大昔からそうであったように群島の盟主気取りで増長していくオベルの若造の様を、彼は苦々しく遠目から見続けていたが、その憤怒の時間も今日で終わりだった。
 見るがいい! 図体が大きいだけで利害の計算もできぬ愚か者。
 自分のできることの限界もわからず、自分には大きすぎるサイズの責任を自ら着こんで自滅した者の、これが末路であった。
 彼は単純な価値観に埋没する行為をさげすんでいたが、今日のこのときばかりはいっそ、「正義は勝つ」とでも叫びたい気分であった。
 決して口に出すことは無いけれども。

 王宮に入ったラインバッハ二世は、そんな心理状況とは裏腹に、極めて謹直で理性的な表情を作り、捕虜の中でもっとも地位の高い者と対面した。
 セツという男性である。
 大柄なミドルポート兵に脇を囲まれたセツのほうはといえば、少なくとも表面上は、ラインバッハ二世とは対極にあった。
 こめられるだけの憎悪と軽蔑をこめて、今朝までの同盟者を睨みつけた。

「これはセツ殿、ご機嫌うるわしゅう」

 ラインバッハ二世がそう語りかけたのは、むろん、嫌味である。
 返ってきた言葉も、親愛の要素など微塵も無かった。

「そちらは、さぞご満悦なことでしょうな、ラインバッハ殿。
 醜い金で買いあさった武力で同盟者を侵略し、恥知らずな裏切りをつまみに、ワイングラスで召し上がる我らの血は、いかなる味がしますかな」

 痛烈といえば、セツがこれほど痛烈な言葉を吐いたのは、後にも先にもこれが唯一であったろうが、この静かな恫喝でも、ミドルポートの領主をたじろがせることはできなかった。

「ご所望ならば教えてさしあげたいところだが、あいにく、私には吸血鬼の素質はないものでね。
 それに、血の味ならば、そちらの方がよくご存知であろう?
 先の戦争で、悪辣な策と罰の紋章とやらで、多くのクールーク兵の血をすすった、そちらの方がな」

 その言葉がセツの怒りの炎にどれほどの油をそそいだか、ラインバッハ二世にはわからなかった。
 別に、知りたいとも思わなかったが。
 セツは一歩前に踏み出した。
 両脇のミドルポート兵に押さえつけられて、二歩目を踏み出すことはできなかったが、峻烈な視線と怒号は、ラインバッハ二世を貫いた。

「この愚か者が! 忘れるな、貴様は今、我らの貴重な血の海の上を歩いておるのだ。
 一歩でも踏み外そうものなら、我らの同胞が、貴様を地の底に引きずり込むぞ。
 醜い金の亡者、殺人者ラインバッハ!
 死者は全てを覚えておるぞ! 自分だけが平穏な死に方をできるなどと、決して思うな!」

 ありったけの声量で叫びながら、セツは、王宮の外へと引きずり出された。
 そのセツの処遇を求められて、ラインバッハ二世は冷めた言葉を吐いた。

「あの男は殺すな。オベル国民を沈静化させるのに、あの男は役に立つ。
 せいぜい、利用してやることだ」

 セツの自殺の可能性を問われて、裏切りの領主はせせら笑った。

「心配せずとも、あの男は、自ら命を絶ったりせぬよ。
 死んで詩人に讃えられるよりも、泥をすすっても生きるのが、この国の【生き方】だそうだ。
 利用されるためだけに生きている田舎者の考え方だが、尊重してやろうじゃないか。
 我らは、他者の思考風俗を尊重する。
 連合などとくだらぬものを強引に押し付けるしか能が無い、狭量なオベルなどとは違うのだ」


 ラインバッハ二世は、必要な処分を手早く片付けると、玉座の間に足を踏み入れた。
 つい先日までその玉座に腰を下ろしていた者は、ラインバッハ二世よりも十五歳ほど年下で、十五センチほど身長が高かったが、そんなことは彼の思考の端にすらかからなかった。

 予想以上の抵抗にあい、必要以上の犠牲を出したのは予想外ではあったけれども、それでも予測の最悪を極めたわけでもない。充分に許容の範囲内であった。
 リノ・エン・クルデスにとって「戦争」とは、政治的駆け引きの手段の一つであったが、ラインバッハ二世にとっての「戦争」とは、経済活動の一環であった。
 戦争後の収支が黒字になりさえすれば、その最中の被害など、どうとでもなる。
 さらにいえば、戦争後の収支を黒字にする手段など、合法、非合法問わず、いくらでもあるのだった。

 重要なのは、これからだ。
 玉座に腰を落としたラインバッハ二世の表情が険しくなる。
 ナ・ナルの攻撃的保守派に資金と甘言とを与えてクーデターを起こさせたのも、ミドルポート艦隊にオベル王国の占拠を命じたのも、彼であった。
 ナ・ナルの保守派には、ありもしないオベルの「野心」を吹き込み、同時に、オベルの「強さ」「危険さ」を切々と説いた。
 そして、予想以上に簡単に、彼らは「ナ・ナルのために」立ち上がったのだった。
 行動力があっても大局観のない彼らを煽動することは、実は簡単なのだ。
 彼ら自身が無謬(むびゅう)の存在であると信じ込ませ、彼らの「正義」が実現可能なものであることを信じ込ませてやればよい、ただそれだけでよいのである。
 自らの「正義」が実現可能であるならば、愚かな行動力だけは無限にある彼らが、動かぬ理由は存在しない。
 むろん、彼らを決起させるために、いかにも説得力のある策略や、いくらかの武器船舶、人員資金などの提供はしたが。
 どちらにしろ、ナ・ナルの騒動は、ラインバッハ二世が動きやすくするためだけに生み出された不幸な私生児にすぎず、それが成功しようがしまいが、彼にとってはどうでもよいことであったのである。
 火をつけはしたが、それを燃え上がらせるのも消してしまうのも、実行者の能力次第だった。

 だが、これは望外の幸運と呼ぶべきだろうが、彼の予想を超えて、ナ・ナルは大きな騒ぎを起こしてくれた。
 おかげで、計画通りにオベルを陥落させることができた。
 そして、重要なのはこれからだった。
「旧」オベル領の統括、必ず反撃してくるであろうオベル艦隊との戦闘。
 そして、ラインバッハ二世がこの島を占領した真の目的の遂行。

 自ら望んで切り開いた流血の道だ。セツなどに怒鳴られなくても、いまさら引き返すつもりなどありはしない。
 リノ・エン・クルデスなどは、既に事件の中途にあって右往左往しているであろうが、ラインバッハ二世にとっては、今、この瞬間がスタート地点であった。
 裏から策を弄し、口や金でもって人を動かしていたプロローグから、ようやく彼にとっての本編が始まるのだ。
 あの愚かな息子には、理解など永遠に不可能であろう。
 利害に基づく結合、契約に基づく信頼こそが、この群島に真の平和をもたらすのだ。
 いつまでも「人間」というものを知ろうともせず、上っ面の、何の理も無い「美徳」とやらに目をくらませて妄言を吐き続ける息子の顔に、彼は何度失望を覚えたことかわからぬ。
 真に人間を結びつけるものが何か。
 この群島に真に必要なものは何か。
 この争いは、これを証明するよい契機となろう。
 オベル王国のような、巨大で強力なリーダーシップなど、この群島には必要ないのだ……。

 そのラインバッハ二世の様を、玉座の間の影から覗いている者がいた。
 長身のその男は、不実で不自然な笑みを顔面に貼り付けて肩を震わせた後、身を翻した。
 その腕から、不自然な金属音が零れ落ちる。
 複数の勢力から組みあがっていたのは、なにもオベル・ラズリル連合艦隊だけではなかったのだ。
 その結合後の姿は、ミドルポート側のほうが、より複雑で醜悪であったかもしれないが……。

COMMENT

(初:08.09.08)