クォ・ヴァディス 09

2-3

 オセアニセス号に救難信号を発信しつつ接近してきた漁船は、リノ・エン・クルデスの判断により、細心の注意を払って保護された。
 ナ・ナル島に近いネイ島船籍の漁船で、積荷は漁業の道具を除けば魚だけであり、乗組員も、一名を除いて全員がネイ島の漁師だった。
 もしもの事態に備えて戦闘態勢に入っていた乗組員は肩透かしを食った形となったが、その漁師ではない一名が、大変な情報をもたらしたのだ。
 その男は、オベル海軍の軍装を身につけており、身体中に細かな傷を作っていた。
 リノ・エン・クルデスにも見覚えがある。近衛隊長トリスタンの側近の男だ。
 彼は、一人で漕ぎ出すには危険すぎる海域を単身用のボートで必至に漕ぎ進んでいるところを、この漁船に保護されたのだった。
 そのオベル兵は、リノ・エン・クルデスの前に引き出されるなり、倒れるように片膝を突いて頭を垂れた。
 実際に激しい疲労もあったのだろうが、それ以上に声が悲壮な感情に支配されていた。

「陛下、陛下、申し訳ありません……、申し訳……」

「どうした、なにかあったのか」

 兵士の狼狽は極みを越しており、何かがあったのは間違いないが、今のままでは何もわからぬ。
 リノ・エン・クルデスは、兵士に先を促した。
 兵士は、胸郭全体の筋肉を使い、肺の底から搾り出すようにして、驚くべき事実を吐き出した。

「オベル本島が急襲され陥落、王宮は【敵】の手に落ちた模様……っ!」

 その場にいた者全員が、なにか見えざる怪物に心臓と肺とを握りつぶされでもしたように、呼吸を止める。
 その言葉の意味を理解するのに一瞬の時間を要した。
 そして理解した瞬間に、体感温度が三度ほど下がった。
 暖かな春の艦橋は、まるで冬との境界まで逆戻りしたかのようなうそ寒さを、その場にいた全員に感じさせた。

「馬鹿な!」

 ラインバッハが、感情に荒げた腕と声とをふり上げる。

「敵とは誰ですか。オベル島には充分な守備兵力があったはず。
 それに、まだあの近海には我がミドルポート艦隊がいたはずです。
【敵】とやらがどのような手段に打って出ようとも、オベルが陥落するはずがない!」

 全員が首肯した。首肯した者に、表情に焦慮を浮かべていない者は一人もいなかった。
 リノ・エン・クルデスは苦々しく歯を食いしばり、ミレイは血の気を失っていた。
 マクスウェルは目元に怒りを称えて、拳を握り締めている。
 だが、熱弁で抗議したラインバッハに対し、報告したオベル兵は、意味ありげに冷ややかな目を向け、この艦橋に更なる爆弾を落とした。

「失礼ながら、【敵】とは、そのミドルポート艦隊なのです」

「なんですと!?」

 その残酷な宣告を胸に突き刺してひるむラインバッハを横目に見ながら、リノ・エン・クルデスは続きを兵士に促した。

「ミドルポート艦隊「八隻」は、進発すると見せて一転、オベル本島を砲撃してきました。
 不意を突かれたかたちの守備隊は、動揺したまま予想以上に多い敵兵に突き破られ、王宮まで占拠をゆるし……」

 がっくりと上半身を落とす兵士に、ミレイが確認する。

「待ってください、ミドルポート艦隊は四隻の筈では!?」

 慌てて顔を向けられたラインバッハは、呆気にとられた表情のまま、糸の切れたゴム人形のように、首を縦に何度も振る。
 彼は精神的なショックに、未だ呑まれたままである。

「見間違いではないのだな?」

 リノ・エン・クルデスの問いに、オベル兵は大きくうなづく。

「はい、トリスタン閣下、ジェレミー将軍と共に、確認いたしました。間違いありません」

 矢継ぎ早にマクスウェルから質問が飛ぶ。

「それで、残った方たちはどうなった? セツ様やトリスタンらは無事なのか」

 兵士は首を横に振った。

「分かりません……。
 市街戦にて敗れ、王宮まで戦線を縮小したところで、私はトリスタン閣下の機転で、陥落直前に脱出させていただきましたが、その後、皆様がどうなられたか……」

「……なんと、なんということをしてくれたのだ、父上……ッッ!」

 ラインバッハが悲痛な叫びを上げて、その場に膝をついた。
 大きな帽子が床に転げ落ち、それを拾うこともせず、彼は頭を抱えた。
 この兵士の報告が完全な事実とするならば、それはラインバッハの父であるミドルポート領主、ラインバッハ二世の姦計、という可能性が高いであろう。
 その息子であるラインバッハに、このような悪辣な計を立案実行することは不可能だった。
 能力的に、ではない。人格的に、である。
 それは、この艦橋にいる者全員の、共通の認識だった。
 つまりラインバッハ二世は、いざとなれば息子を犠牲の供物に捧げても、この裏切り行為を実行させるつもりだったのだろうか。

 そのラインバッハを見ながら、リノ・エン・クルデスは幾つかの指令を手早くマクスウェルに出した。

「ともかく、事実を確かめねばならん。高速艇を二隻、オベルに先行させろ。
 それから、ラズリル側と連絡を取りつつ、艦隊をオベル付近まで戻せ。
 ネイ島にはミズキとアカギを向かわせろ。現状の把握に務めるように。
 いざとなればナ・ナルへの侵入もしてもらわねばならん」

 マクスウェルは無言で頷くと、部下に指示を出しながら艦橋を出て行く。
 確認しなければならないことがありすぎた。
 ミドルポート艦隊の裏切りは本当なのか、本当だとしたら、ミドルポート艦隊以外の四隻はどこから来た何者か。
 なにが目的でラインバッハ二世がオベルを占拠しなければならないのか。
 これは、ミドルポートとナ・ナルの連携の行動といえるのか。
 とにかく、今は事実を確認するのが最優先だった。焦りや暴発は禁物である。
 リノ・エン・クルデスは本来、そう気の長いほうではないが、今回は忍耐が必要であると悟っている。
 オベル占拠が真実なら、皆殺しにでもされていない限り、オベル国民すべてが人質になっているに等しい。

「くそっ!」

 リノ・エン・クルデスの巨大な拳が、空を殴りつけ、ここに存在しないはずの何者かを絶命させた。
 今回の事件は、最初から現段階にいたるまで、なにもかも、この姿厳雄偉な国王には気に入らぬ。
 策を用いるのが悪いとは言わぬ。
 だが、策のみを用いて、自らは一歩も動かずに実利のみを得るやりくちは、リノ・エン・クルデスにとってはありえざる価値観であった。その存在を認識はしても、決して同居できぬ価値観だった。
 だが、現実にこのような事実が生じてしまった。生じてしまった以上は、その事実に対処せねばならない。
 一瞬、リノは、まるで群島全体が自分の敵に回ってしまったような幻覚を脳裏に掠めさせて、唖然とした。
 つまり、フレアを襲った刺客が語ったように、群島諸国連合などというものは、オベルにとってのみ都合のよい原色の幻想でしかなかったのだろうか?
 現段階で、この群島にとって最も不利益をもたらしているのは、ナ・ナルではなく、実はオベル王国であったのだろうか? だから、ミドルポートとナ・ナルは、協力してオベルの失墜を画策しているのだろうか。
 リノは、まるで都合の悪い想像を物理的に頭脳から追い出すかのように、頭を振った。
 否だ。
 少なくとも、形の上だけでも連合が発足して以来、この海を囲む大陸諸国からの大きな侵攻はないし、連合を一つの国家とみなしてオベルに使者を派遣してくる国すらある。
 少なくとも外面的には、連合の存在は、群島にとってマイナスにはなっていないのだ。
 問題は、その存在によって利益を得るのがオベル王国のみである、と内部から錯覚されていることにある。
 この点は、リノ・エン・クルデスにとっての反省点ではあるだろうが、それも、内部の島々が最初から被害妄想というグラブをはめて彼との握手に応じているのであれば、彼としては対処のしようが極めて限られてしまう。
 根気よく連合のメリットを啓蒙していくしかない。

 リノはもう一度頭を振った。
 ともすれば突発の大きなアクシデントは、敵対する相手を過大評価させてしまう。
 ミドルポートをはっきりと敵と認識することには、まだ勇気を必要としたが、どちらにしても、オベル方面に引き返せば、いやでも事実ははっきりするであろう。
 そのときのために、ラインバッハには色々と話を聞かねばならない。
 そう思って彼のほうに向いたリノの目に、驚くべき光景が飛び込んだ。
 呆然としていたラインバッハは、自らの剣を抜くと、その剣先を、自らののどに当てていたのである。

「ああ、やめい!」

 リノの絶叫を受けて、我に返った数人の海兵が、ラインバッハの身体を抑え、その腕から剣をもぎ取った。
 ラインバッハは、逞しい海兵に後ろから羽交い絞めにされながら、暴れ叫んだ。

「頼む、死なせてくれ! このような事態になって、どうして生き恥を晒しておける! 斬れ、私を、早く!」

 彼の声は震えていた。
 彼は泣いていた。長身のリノを見上げながら、死を懇願した。
 リノは、むしろ哀れみを籠めてラインバッハに語りかける。

「君がいま自刃してどうなる。ミドルポート艦隊がオベルから引き上げるとでも?」

「ですが、オベル王よ。私はこの生き恥には耐えられぬ。
 私は愚者です。あなたのような政治の能も、父のような経済の能もない。だから父に捨て駒にされた。
 だが、愚者であるがゆえに、私は恥というものを知っています。
 どの面を下げて、おめおめとこの旗艦で生き恥を晒せと仰せになるか」

 リノは、海兵からラインバッハの剣を受け取ると、ゆっくりと切っ先を床に向けた。

「生きるということは、すなわち、恥を重ねることさ。
 そして能の有無ではない、その自らの恥をすら知らぬ者を愚者というのだ。
 自らの恥を詫びることができる君を、愚者とさげすむ者はいないよ」

 リノが合図をすると、海兵はラインバッハの身体を離した。
 ラインバッハは、確かに思考に甘いところはあるが、嘘がつけぬ男である。
 彼の慟哭が演技であるとは、リノは思っていなかった。
 ラインバッハはよたよたと、リノの前に立つ。

「オベル王よ……」

「ラインバッハよ。父の不明を自らの恥と思うのならば、俺たちと共に戦って、その恥を雪(すす)げ。
 しばらくは不自由をさせるが、それでよろしいか」

 ラインバッハは一瞬、どのような表情を作ってよいか迷った様子ではあったが、その表情を引き締め、オベル国王の前に片膝をついた。
 リノの言わんとすることを、正確に理解したのである。

「御意。陛下のお心遣いに感謝いたします……」

 満足そうに頷き、リノは海兵に合図をした。

「ラインバッハ氏を武装解除し、第五甲板へお連れしろ。失礼のないように」

「では、こちらへ……」

 数人の海兵に促されて、ラインバッハは艦橋から退出した。
 一旦は旗艦の最下層、第五甲板通路にある一室に拘禁され、ミドルポート艦隊のオベル占領の事実が確認され次第、牢に拘束されることになろう。

 こうして、シュトルテハイム・ラインバッハ三世は、ラインバッハ家の人間として初めて、一時的とはいえ虜囚の身となった。
 だがそれは一方的な恥を享受するものではなく、今後の彼の人生にとって大きな飛躍の苗床になる経験であった。

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(初:08.08.20)
(改:10.03.20)