――――ああ、また、俺はここにいる。
それが彼の第一印象だった。
特に驚きはない。それどころか、どんな感情もわいてこない。
無感情でいる自分に、逆に驚いたくらいだ。
ここは、彼にとって、そんな場所だった。
重要な場所であることはわかる。だが、必ずしもそれは、彼自身の能動的な感情と一致するものではない。
ここには、辛い想いが多すぎる。様々な意味で。
そう、彼はその場所を知っていた。
否、正確には「場所」ではなく「空間」と呼ぶべきだろう。
薄紫色と黒色、そしてわずかな赤色の雲状の物質に周囲を囲まれた、光の殆ど入らない、巨大な筒状の空間である。
それは、広く、遠い。
目前には、永遠に続いているとすら思える、暗い道が伸びる。
振り向いても、自分の後ろに、目前と全く同じ道が続く。
暗さも同じ。分岐の無い、遼遠な一本道だ。
物理的な出口は無い。確証は無いが、彼はそう確信している。
彼は、すでにその空間に、何度も身をおいていた。
自らの意思でではない。気づけば、ここにいた。
彼自身の意思など関係なかった。
そして彼は、えもいわれぬ重さを持つその空間の空気も、人の不快感を助長するように誰かが調整しているとしか思えない湿度も、そして現実感というもの全く持たない温度も。
全てが、好きにはれなかった。
そして、その好きでもない空間に、またこうしてつれてこられている自分がいる。
だがそれは、仕方が無いことだ。彼が通らなければならない、これは「覚悟の道」だから。
だが、と、彼は疑問に思う。
――――なぜ自分が今、ここにいる?
この空間に彼が到達するには、ある種の条件が完成されなければならないはずだった。
そして、彼自身はその「条件」を知っている。
何度もここに身をおいた経験が、彼にそれを悟らせた。
だが、現実の今の彼が置かれた状況は、それを完成させる要因は、何一つ存在していないはずである。
この「記憶」と自分が接続される「理由」が存在しない。
――――なにかがおかしい。
ふと思い、彼は自分の周囲をぐるりと、視線で横に撫でる。
おかしいといえば、これ以上におかしい状況もなかろうが、彼は知っていたのだ。
ここに存在すべき、「あるもの」がいない。
自分がここに立っている以上、それは必ず存在するはずなのだ。存在しなければ「いけない」。
彼はそれを探して、前に一歩を「踏み出した」。
その瞬間、はるか前方に、「それ」が「生まれた」。
陽炎のように背後に溶け込みつつ、眼に沁みる真紅の光を放つ、ぼやけた球体。
彼は、いつものように、「それ」に向かって走った。
かなりの距離を進んだようにも思えるが、実はそうでもないかもしれない。
この空間では、時間的な感覚も、疲労を感じる肉体的感覚も、何もかもがデタラメに働いている。
感覚的な器官は、まったく信用できないが、それが別に大過を生むわけでもない。
つまるところ、この空間に存在することに必要とされない器官の働きは、極めてあやふやになっているのだった。
彼は、「それ」の前に立った。
真紅の陽炎の球体は、ゆっくりと姿を変えていく。
それは「少年」である。
十歳くらいだろうか、品のよい服を着せられ、綺麗な金髪は綺麗に切りそろえられている。
だが、健康的には見えない。
周囲の暗い色彩に染められて、少年は黒に近い紫の光を放っているように見える。
そして、常に苦しそうに、胸を押さえて前かがみに立っていた。
この少年に、彼は会ったことがあるはずだ。
それがいつのことだったか、どのような状況下であったか、覚えてはいない。
だが「この空間」で、彼は少年に会ったことがあるはずだ。
彼は、強烈なデジャヴに頭痛を覚えながらも、頭の中の記憶層を乱暴にかき回して少年を思い出そうとする。
だが、その努力は報われなかった。
彼のほうに向いた少年の身体が、指先から崩れだしたのだ。
まるで風に飛ばされる砂粒のように、少年を構成する分子が、綺麗に分解しながら空気に溶けていく。
そんななかにあって、少年は彼に、必至になにかを伝えようとしているようだった。
声は聞こえない。触れ合うこともできない。
だが、強固な意志と強い願望が、彼になにかを悟らせようとする。
彼が何かを悟る前に、タイムリミットがきた。
少年は、パクパクと口を動かし、彼と視線を離さないまま……、空中に溶けきった。
少年は何を伝えたかったのか。
以前に会ったとき、少年は彼になんと言ったか。
必至に思い出そうとするが、その努力も徒労に終わった。
彼自身の「意識」が、失われていく。
今度は、彼がこの空間から退場する番だった。
彼自身の存在が消え去ってしまうわけではない。
彼は「目覚める」のだ。
覚醒し、本来の彼の世界へと、舞い戻るのだ。
そうして、目蓋の上から光を感じる。
彼――マクスウェルは、オベル王宮の客間の一つで、覚醒した。
痺れが残る身体を少しずつ動かしつつ、窓に視線を向ける。
太陽が高い。もう昼ごろにはなるか。
先ほどまで、確かな実感を持って存在していた「あの空間」――「罰の紋章」の持つ記憶の世界。
これまで数奇な運命に翻弄された、「罰の紋章」を宿して「しまった」人たちの、久遠に残る苦悶の記憶。
マクスウェルは、徐々に覚醒する意識の内に、先ほどの情景を忘れぬように、精神に刻み付けた。
彼の左手に宿る「罰の紋章」が見せる記憶との邂逅。
それはこれまで、マクスウェルにとって、必ずなんらかの意味を持つものだった。
今回の少年との「再会」が、無意味であるはずは無い。
罰の紋章は、マクスウェルになにを語ろうとしているのか。
それが、彼が巻き込まれつつある事件と、どのような関係があるのか。
考えるべきこと、知るべきことは、まだまだ多い。
マクスウェルが目を覚ましたのは、昼をやや過ぎてからだった。
ゆっくりと起き上がった彼は、心配そうに彼の名を呼ぶミレイに、やや疲れた笑顔を向けて、一つ頷いた。
国王リノ・エン・クルデスとミズキが、ミレイからの知らせを受けてマクスウェルの居る客間を訪れたのは、三十分ほどしてからだ。
覚醒したマクスウェルは、ユウの診療所での狼狽を、リノとミズキに謝罪した。
リノは真顔でそれを受け入れ、ミズキは無表情に近いながらも、逆にマクスウェルを失神させたことを謝罪し、お互いにそれを許しあった。
感情豊かなリノと違い、ミズキは「忍び」という職業がらか、感情というものを殆ど見せない。
その点では、良い意味で人間くささに満ち溢れた同僚のアカギや、口が悪くて皮肉屋だが人情家でもある姉弟子のケイトのほうが、むしろ異端であるのかもしれない。
他人には判別つきにくいミズキの感情を正確に読み取ることができるのは、常に彼女の傍にいたアカギとケイト、元上司だったラマダ、そして、一度だけミズキが我を失ったところを目撃したことがあるマクスウェルのみだろう。
殊にマクスウェルは、その出来事以降、彼女との交流を務めて深めた、その努力の成果とも言えた。
襲撃事件のこともあり、リノはもう少し王宮で休むことを薦めたが、マクスウェルはそれを固辞して、リノに質問をした。
「陛下、ジュエルが重態に陥った経緯を教えてください」
やはり現在の彼にとっては、ジュエルの容態が最大の懸案事項だったのだ。
リノは、どう話したものか考えているようで、複雑に表情を組み替えたが、最後はため息をついて語った。
「今朝早く、本島東の海岸において、彼女が瀕死の状態で倒れているのが発見された。
発見したのは漁師の一人。
まっさきにユウのところに運び込まれたが、あと一時間遅ければ、確実に命はなかったそうだ」
リノの一言一言を聞き逃すまいと力んでいるマクスウェルの様子を、ミレイが心配そうに、ミズキが無表情で見守っている。
リノは言葉を続けた。
「ジュエルの身体には、剣によるものと思われる傷が多数見つかっている。
それによるショックと出血、激しい疲労が、彼女の重態の原因だ。
船が発見されていないから、ナ・ナルに住んでいたはずの彼女が、どうやって漂着したかは不明だ。
渡航の途中で襲われたのか、重症を負った状態で運ばれてきたのかは、わからない。
要するに、彼女本人に聞かない限り、なにも分からないということだ」
リノが軽く首を傾げ、マクスウェルも頷く。
ミズキが、誰にもわからぬくらい微妙な動きで、二人を当分に眺めて考え込んだ。
マクスウェルは王宮を出ると、ユウの診療所に足を向ける。
ジュエルが心から心配であるのは当然だが、ナ・ナルでいったい何があったのか少しでも情報を得たい、と思う心が全く無かったわけでもない。
ジュエルだけではない。
ナ・ナルにいる彼の仲間が、ジュエルのようになっていないという保障は、どこにも無いのである。
年齢的な若さと、経験的な苦労性とが、微妙な割合で同居するマクスウェルの表情には、憂慮の二文字が、時間がたつごとに少しずつ積み重なっていた。
どちらにしろ、彼はジュエルに会わなければならなかった。
彼の隣を歩くミレイが、心配そうに、その表情をちらちらと見ている。
ミレイは、この事件が一段落するまで、マクスウェルの護衛を勤めるようにリノ・エン・クルデスからの命令を受けていた。
これは、ミレイ自身の希望でもあった。
単純な意味で言えば、ラズリルからガイエンを含めた群島諸国において、「罰の紋章」を持つマクスウェルほど強い「力」を持つ者はいないであろうが、それはあくまで、「罰の紋章」が持つ攻撃力のみをさしての評価だ。
そこに、マクスウェルが本来持つ性格を加えれば、「力」という意味の評価は、若干の下方修正を施されるだろう。
彼自身は、決して「罰の紋章」を望んで持っているわけでもないし、その「力」を望んで行使したことは、一度もないのだから。
そしてそのことが、ミレイにとっては喜ばしかった。
「罰の紋章」に振り回されながらも、マクスウェルは懸命にあがいて、前に進もうとしている。
その懸命さが、周囲を、そして彼自身を、裏切ることはないはずだから。
二人がユウの診療所を訪れたとき、彼らを出迎えたのは、ユウの助手であるキャリーだった。
けぶるような金色のロングヘアを首の後ろで纏めた女性で、その笑顔と明るい献身的な人柄は、常に診療所を訪れる患者たちに慕われていた。
二年前の解放戦争にも、従軍看護師としてユウ医師とともに解放軍に参加している。
いつまでも、どこか怪しい雰囲気が抜けきらないユウと共に、オベル島の人々の健康のために尽力している苦労人である。
そのキャリーが、マクスウェルらを迎え、単刀直入に切り出した。
「お尋ねになりたいことはわかっています。ジュエルさんのことですね……」
言い当てられたマクスウェルとミレイは、だが驚きを表すことは無い。
身体的にいたって健康的な彼らが、今、深刻な表情でここを訪れる理由は、他にないからである。
常に本島で軍務に従事しているミレイと異なり、マクスウェルがキャリーと顔を合わせるのは半年振りのことだが、とても笑顔で久闊を叙する気分にはなれなかった。
「キャリーさん、ジュエルの容態はどうなんですか? 彼女に会うことはできませんか」
マクスウェルが、搾り出すような声を出し、ミレイが、彼からキャリーへと視線を移す。
キャリーは、しっかりとマクスウェルの眼を見つめた。
「最悪の状況は脱しましたが、まだ安心はできません。傷は深いし、熱も下がらないの。
面会はおろか、意識が戻るという保障すらないんです。こういうことを言うのは辛いけど、覚悟は……しておいてください」
「………………………………」
マクスウェルの手が、膝の上で固く握られ、小刻みに震える。
キャリーは、とてもマクスウェルの表情を直視できなかった。
家族、関係者に対して、その人の死の覚悟を求めるのは、医療に関わる者としては、避けては通れぬ職務である。
だがそれは、辛い職務だった。
一つの死が、多くの悲しみを量産する。
特に家族の意味を知らずに育ったマクスウェルにとって、大切な仲間の「死」と直面することが、どれほど魂を削り取ることになるのか、キャリーには想像がつかない。
だが彼女は、マクスウェルに声をかけた。
「マクスウェルさん、ジュエルさんから【伝言】があります」
「……伝言?」
マクスウェルが、低い、だが不思議そうな声で、キャリーを見た。
「でも、ジュエルの意識は戻っていないんじゃ?」
「さきほどジュエルさんが、うなされるように一回だけ口にした言葉です」
マクスウェルは視線に力をこめ、背筋を伸ばした。
ミレイも、つられて表情を険しくする。
キャリーは言った。
「【お願い、ポーラを助けて】。
それが、ジュエルさんの言葉です」
マクスウェルは、思わずテーブルを殴りつける。
その拳の下で、罪の無い木製のテーブルが悲鳴を上げた。
恐らく、ジュエルはこの言葉をマクスウェルかリノ・エン・クルデスに伝えるために、ナ・ナルを脱出したのだ。
そして、それを察知したクーデター派に襲われて、傷ついたのではないか。
「…………ッッ!!」
もう一度テーブルを殴ろうと腕を振り上げ、殴りきれずに、マクスウェルはその姿のまま身体を震わせた。
ジュエルがそれを伝えようとしていたということは、ポーラはそれよりも前に、危機を迎えているはずなのだ。
恐らく、自分が襲撃される直前くらいのことだろう。
そのとき、自分はのんきに、昼食のための狩りの準備をしていたのだ。
「くそ……」
マクスウェルがゆっくりと腕を下ろし、ソファに身体を沈めて、肩を震わせる。
ミレイが遠慮がちに、その肩に手を置いた。
「マクスウェル様、あなたはあなたでその時、生き残るために戦っておいででした。
あなたがお仲間のためにお怒りになるように、あなたがお亡くなりになれば、お仲間はみんな悲しまれるでしょう。
ご自分を責めてはいけません」
マクスウェルは二人の顔を順に見た。
キャリーの瞳には、強い意思の光がともっている。
「私たちは、絶対にジュエルさんを死なせません。
仕事だからじゃありません。同じ目的のために戦った仲間だからです。仲間のために全力を尽くします。
マクスウェルさん、あなたにもやるべきことがあるはずです。仲間のために、あなたにしかできないことが。
ジュエルさんのことは私たちに任せて、あなたは、あなたにしかできないことを成し遂げてください」
「俺にしかできないこと……」
マクスウェルの表情が変わった。
ミレイは、その表情に見覚えがあった。
二年前のことだ。彼は、この表情で、群島解放戦争の中心にいたのである。
「……わかった。ありがとう」
マクスウェルは立ち上がり、キャリーに向けて頭を下げた。
「キャリーさん、ユウ先生にも。ジュエルを、お願いします」
「はい、お任せください」
キャリーの温かな笑顔が、マクスウェルの乾いた心に、染み渡った。
王宮への帰り、二人はゆっくりと海岸を歩く。
言葉は無い。お互いに、考えなければならないことが多すぎた。
ミレイのシルバーグレーの髪が、海岸沿いを流れる優しい風に靡いた。
海は、彼らを常に大きく包む。そこに邪心はない。邪心を持つのは、人間だけだ。
マクスウェルの隣を歩くミレイは、ふと、時間が二年前に逆行したような錯覚を覚えた。
燃え盛るような熱さをいつも感じていた、あの時間。
キャリーの言葉が、ミレイの心にも広がっている。
あの時、マクスウェルとリノ・エン・クルデスの下に集まった者たちは、みな同じ志の下にあった。
戦争が終わって二年が経ち、仲間達は散った。
故郷に戻った者もいれば、自分のように、新たな土地で新たな人生を始めた者もいる。
仲間達のなかにはまだ、キャリーや自分のように、心のどこかに、当時のことを熱い記憶として持っている者がいるだろうか。
そして、ミレイは思う。
マクスウェルが、またあの戦いの海へ戻ることがあるのだろうか。
百八人が待つ、あの海へ―――。
(初:08.08.20)