マクスウェル、ミレイ、ミズキの三名がオベル本島の土を踏んだのは、無人島での激戦の三日後、三月二十日早朝のことだった。
ミレイは、マクスウェルとミズキの二人を無事にオベルまで送り届けたことで、国王リノ・エン・クルデスからの密命を果たしたことになるが、それには部下四人の命という、思いもしない高い代償がついた。
ミレイは少しでも任務を甘く見ていた自分に対して、苦い思いを向けざるをえなかった。
オベルに戻る船上、ミズキがナ・ナルの調査で得た情報が、三人の間で纏められた。
ナ・ナル島は、百キロの海岸線と、約二千五百人の人口を抱える大きな島である。
オベル王国、ミドルポート、ガイエン公国、ラズリルに次ぐ、群島諸国五位の経済圏を形成する。主産業は漁業で、わずかに温泉観光業を営む。
島民は、その役割に応じて、全員が額に青、もしくは赤の三角形の刻印をすることが、文化的な伝統である。
だが、この島の最大の特徴は、その独立不羈(ふき)の気質にある。良く言えば独立心が強く、悪く言えば閉鎖的な島社会であり、特に外部からの圧力に対しては、ヒステリックな反応が返ってくることが多い。
アクセル新島長を頂き、群島諸国連合に加わり、徐々に中道的、開放的な傾向に移行しつつあったナ・ナルだが、その元来の島の気質である攻撃的保守派、あるいは旧来の独立志向派と称すべき一派が、完全にその活動を停止したわけではなかったのだ。
その彼らが、他の国・島との政治的・経済的結合を推進する群島諸国連合に対して好意的になるべき理由は、どこにもない。
時間をかけて力と武器を溜め込みながら、引退はしたものの未だ島全体に隠然たる影響力を持つ前島長(アクセルの父)を担ぎ上げ、ついにクーデターを敢行したのだった。
ミズキが自らの手で得た情報はそこまでだったが、それ以降の状況は、あの無人島襲撃戦で容易に想像できる。
「今回の事件は、一部の過激派の暴走と思われます。
恐らくナ・ナルは、オベルに対して正面から戦争をしかける覇気は無いでしょう。彼我の軍事力に、あまりに差がありますから」
ミズキの無機質な声に、ミレイが反応する。
「ナ・ナル人は非常に屈強ですが、島には小規模の自警団と、島長直属の私兵がわずかにいるだけで、軍と呼ぶべき組織も装備も存在しません。となると、彼らがとるべき対抗手段は、必然的にテロリズムしかないということになりますが」
マクスウェルが、顎に手を当てて考え込んだ。
「それにしては、解せないな。
どう使われるかわからない、彼らにとって危険要素でしかない俺を、まず抹殺にかかるのはわかる。
だが、それにしても、あの襲撃は少し大げさすぎるような気がする。
敵は俺一人だから、人海戦術で圧倒するのは、確かに正しい選択だが……」
「それだけ、マクスウェル様の紋章を、彼らが恐れているのでしょうか?」
ミレイの疑問には、ミズキが答えた。
「それもあるでしょうが、マクスウェル様の違和感は、もっと別に起因していると思われます。
大規模なテロ活動を起こすには、まだ時期尚早ではないか、ということでしょう」
マクスウェルはため息を一つついて、船室の壁に体重を預ける。
光沢のあるチョコレート色の髪が、わずかに揺れ、透き通るような蒼い瞳に思慮の波がたゆたう。
「そうだね。彼らは額の刻印で、ナ・ナル島民であることはすぐに解ってしまう。自ら騒ぎを起こすには、リスクが高いはずだ。
それに、俺を拉致誘拐して交渉の道具にするならまだわかるけど、殺すということは、俺を保護しているオベル国王リノ・エン・クルデスに対して、宣戦を布告することと同じ意味だ。
オベルの報復を招くだけで、オベルとの早期の正面対決を避けるためのテロリズムとしては、全く意味がない」
「彼らは、マクスウェル様を誘拐するつもりで襲撃してきた、という可能性はありませんか?」
「その可能性はまずありません。誰の仕業かは断定できませんが、襲撃者たちは、マクスウェル様の首級に多額の賞金がかけられている風なことを言っていました。
それは、マクスウェル様の死を直接的に誘発するための材料でしょう」
「それに……」
マクスウェルの声に、ミレイとミズキの視線が彼に向く。
マクスウェルはその視線の行方に気づいていないようで、半ば自分に言い聞かせるように言葉を続けた。
「たとえ担ぎ出されたにしても、二十年以上もナ・ナルを率いていた実績のある前島長だ。
島を危険に晒すデメリットしかない決断を、簡単に下すとは思えない」
その思考には、ミレイもミズキも同意して首肯した。
ミレイの脳裏には、前島長の顔が、かなり鮮明に記憶されている。銀色の髪を肩よりも少し上の高さで切りそろえた、立派な鼻髭を持つ男性だ。
決して恐ろしいという雰囲気はないものの、腹の中には、潔さでは割り切れない、なにか暗いものを抱え込んでいる様な、そんな印象の男性だった。
あまり良くない意味での「策士」といった表現が、もっとも適当だろうか。
だが、良くも悪くも策士たる者が決行するには、この襲撃作戦は、やや無策にすぎる印象が強い。
「だとすると、あの事件の根には……」
「ああ、裏で糸を引く、見えざる第三者の意図が見え隠れしているな」
壁に背を預けて、マクスウェルは、空中に「見えざる第三者」の顔を適当に描いてみせる。
だが、そうは言ってはみたが、それが可能性の一つでしかないことは、自明の理である。
今はまだ情報が少なすぎて、結論を急ぐのは危険だった。
「いずれにしても、今はまだ結論を出すには早い。陛下の決断を仰ぐべきだろう」
マクスウェルは、思考を進めたくなる衝動を排して、言葉を打ち切る。
彼は今や、街に暮らす一市民などではなく、様々な勢力から一挙手一投足を注目される存在である。そんな自分が、一人で行動することの危険性を、彼は知悉していたから、抑えるべきときは我を抑えねばならない。
だが、十五年間、フィンガーフート家において小間使いとして働き、精神的に鍛えられていた彼にとって、その程度の忍耐心など忍耐のうちには入らなかった。
今は、選択を誤りさえしなければよい。しかも、その選択をするべき者は彼自身ではない。
それは、彼の保護を実行し、外交におけるオベルの最高責任者の地位にある、リノ・エン・クルデスであった。
それに、政治的な決断に関しては、マクスウェルはあまり関心が無い。
彼の最大の心配は、ナ・ナル島に住む、彼の大切な仲間たちのことだった。
島長のアクセル、共にガイエン海上騎士団の仲間だったジュエルとポーラ、そしてエルフの村のセルマ、罰の紋章を見守り続けたリキエ、ラクジー母子。
みんな無事でいてほしい。
彼の願いは、ほとんどそれだけだった。
だが、そんなマクスウェルの願いは、オベルに上陸を果たした途端に裏切られることになる。
オベル港で彼らを待っていたのは、フレア王女の付き人を務めるデスモンドだった。
自信無げに、常に何かに戸惑っている印象のある彼だが、マクスウェルを迎えたときの狼狽ぶりは、その極致にあった。
彼はマクスウェルを見つけると、良く晴れた早朝の港を、転ばないのが不思議なほど頼りない走り方で近寄ってくる。
「マクスウェル様! マクスウェル様ぁ!」
その狼狽振りから何も感じないほど、マクスウェルもミレイもミズキも、のんきな性格ではない。
デスモンドは、警戒の色を強くした三人に、身体を震わせながら声を張り上げた。
「早く、早くユウさんの診療所に! ジュエルさんが大変なことになって――――!」
マクスウェルが彼の言葉を最後まで聞くことは無かった。ジュエルの名が出た瞬間、下船の処理もそこそこに、デスモンドを突き飛ばし、彼は走り出した。
ミレイとミズキが急いで後を追う。
無我夢中と言ってよかった。ユウの診療所までの道のりを、ただひたすら走った。
希望は常に裏切られる。そんな苦い認識も、今は彼の思考の外に追い出されていた。
三人が島の東にある、群島諸国を代表する名医ユウの診療所に駆け込むと、そこには先客がいた。要人とは思えぬラフな服装に身を包み、たくましい長身を落ち着かせられずに揺らしていた。
オベル国王リノ・エン・クルデスである。
彼はマクスウェルの姿を確認すると、少しだけ安心したように何かを言いかけたが、マクスウェルがその言葉をさえぎって叫んだ。
「陛下、ジュエルは!?」
先ほどまでのデスモンドの周章狼狽ぶりを受け継いだかのような、マクスウェルの表情と声に、豪胆なオベル国王は苦渋の意思を顔に刻み付け、首を横に振った。
「今、ユウとキャリーが治療しているが、かなり危険な状態だ。いつ生命が失われるか――――」
マクスウェルは先ほどと同じく、リノの言葉を最後まで聞かなかった。「かなり危険」というところでついに激発し、奥の治療室に飛び込もうとしたのだ。
だが、そんな若い英雄の身体を、国王のたくましい腕が捕まえた。
「どうする気だ」
「決まってる! ジュエルのところに行くんだ!」
「お前が行ってどうなる!」
「ジュエルを死なせるものか! あの子は大切な仲間なんだよ! 大切な――!!」
悲痛な叫び声を上げながら、マクスウェルはリノの腕の中で激しくもがく。
彼がこれほどまでに我を失うのは、極めて稀なことで、ミレイは呆気にとられて見てしまったが、ミズキは冷静に行動した。
音も気配も無く、すばやくマクスウェルの後方に移動し、
「マクスウェル様、ご容赦ください」
静かに言って、手刀を軽く、マクスウェルの首に落とした。
「ぐ……あっ……」
マクスウェルの体が軽く震える。腕を治療室のほうに突き出しながらも、四秒後、彼はリノの腕の中で、身体をガクンと脱力させた。
意識を失ったのだ。
マクスウェルは、リノの命令によって、逞しい海兵たちの手で王宮に運び出された。
「すまんな、ミズキ」
「いえ……」
ミズキは、不本意なかたちで退場させられていくマクスウェルを見送りながら、リノに呟いた。
「マクスウェル様は、人の温かさ、友の大切さを、誰よりも深く知っておられる方です。
特にジュエルさんは、マクスウェル様を信頼し、騎士団を抜けてまで行動を共にされた方。我を失われるのも、当然のことかと……」
「そうだな……」
我がことのように、リノは深いため息をついて、首を振った。
群島諸国の海の民は、権力の流れを象徴する「縦の構造」を偽悪的に嫌う一方で、仲間に対する「横の紐帯」、同朋意識が非常に強い。
それはオベルもナ・ナルも変わらない。ナ・ナルは、それが強く内に向かいすぎるのが問題なだけなのだ。
だが、内側に向かいすぎる同胞意識は、その外側に存在する者たちを傷つけずにはおれないのが常である。
今回のナ・ナルの変事においては、未だに情報が少ない。
マクスウェルならずとも、リノ・エン・クルデスにしても、ナ・ナル居住者であるジュエルの持つ情報は、かなり有益性が高いことは疑いない。
二重の意味で、リノはジュエルの生存を強く願った。
マクスウェルが運び出された後、リノ・エン・クルデスも王宮に帰還した。
彼らが診療所で青い顔を並べていても、治療を施すユウとキャリーの邪魔になるだけなのはわかっていた。
彼らには彼らで、やるべきことがあるはずだった。なはなだ散文的で、重要なことが、である。
オベル王宮にて、緊急の御前会議が開かれた。
マクスウェルにはミレイが付き添い、ミズキは無人島で起こったマクスウェル襲撃事件について、細かく報告した。ジェレミーやトリスタンが怒りに拳を奮わせたのは、マクスウェルが彼らの士心を深く掴んでいたことの証左であったろう。
ミズキが持ち込んだ情報は、一同に衝撃を持って受け入れられた。
ジェレミーが迅速なナ・ナルの武力制圧を訴えたが、長身雄偉の国王は、安直に事実を結びつける愚を戒めた。
「ナ・ナルでクーデターが起きたのが事実としても、それとマクスウェル襲撃をすぐに結び付けてはいかん。額の刻印など、簡単に捏造することができる。群島の結束を面白からぬ目で見ているものは多いからな」
「マクスウェル様も仰っていました。見えざる第三者の意思の存在を感じる、と……」
ミズキが言うと、一同の半数は頷き、半数が驚く。
リノは頷いた。彼は、マクスウェルの政治的な嗅覚の鋭さを良く知っており、いまさら驚くことではなかった。
それに一つの事実がある。無人島でマクスウェルとミズキが打ち倒した八十三の敵の死体のうち、ナ・ナルの刻印を持っていた者は六十八。
つまり、最低でも十五人はナ・ナルとは別の勢力なのである。
マクスウェルの言動は、その事実に基づいていた。
「いずれにしても、ナ・ナルを放っておくわけにはいかん。セツ」
「はい」
呼ばれた老臣は、小柄な背筋を伸ばした。本人の努力も空しく、最近は以前にもまして、出た腹が目立つ。
「ナ・ナルを監視するために、公に艦隊を派遣すべきか、それとも変事に備えて監視船の哨戒で済ませるか。いずれを採る?」
「今はまだ、ことを大げさにするのは得策ではありません。詰問の使者を送り、ラズリルやミドルポートと協調しつつ、じわりじわりとナ・ナルにプレッシャーをかけて様子をみるべきかと」
だが、この老臣の慎重策には、すぐに反論が起こった。ジェレミーが激高したのだ。
「手ぬるい! オベルの重要な客将であるマクスウェルを襲撃したことは、オベル王家の権威を愚弄するものだ。
正面から売られた戦争を、手をこまねいて見ているだけでは、諸国連合の盟主たるなど、思いもよらぬことではありませんか!」
「ジェレミーは即時開戦を望むか?」
「
当然だ、と言わんばかりの勢いで、ジェレミーが首を縦に振る。
勢いのあるオベル王国ではあるが、決して政府全体が完璧に一枚岩として機能していたわけではない。
特に、常に何事にも慎重な老臣セツと、積極的な前進を好む若い重臣たちの間では、常に浅い溝が穿たれるのが常だった。
このときも、激高する同僚をなだめつつも、トリスタンがジェレミーに賛同した。
「真相がどうあれ、ナ・ナルの刻印を持った者たちがマクスウェル殿を襲撃した事実は、すぐにでも諸島に伝わるでしょう。
恐らくその影響は、セツ様のご想像よりも大きなものになるかと思われます。
ラズリルやミドルポートとの協調はよろしい。ですが、誰の思惑にしろ、後手に回るのは戦略上もよろしくない。
ジュエル殿の件も気にかかりますし、マクスウェル殿本人の意見も聞かねばなりません。
今は大なり小なり、起こせる行動は起こしておくべきです」
国王リノ・エン・クルデスは、大きく頷いた。
どちらにしても、今は情報がなさすぎる。ナ・ナルの詳しい情勢すら、まだ見えていないのだ。
暴発したナ・ナル過激派が起こした単純な事件なのか、それとも、マクスウェルの指摘した「見えざる第三者」とやらの思惑が隠れているのか。
わからないことには対処のしようも無く、考えられる状況に、いつでも対応できるような態勢をとっておく必要があった。
そして、全艦隊にいつでも出航できるように準備をしておくこと、ナ・ナル方面の警戒を厳重にすること、ラズリルとミドルポートに急ぎの使者を立てることなどを決定して、リノ・エン・クルデスは会議を散会させたのだった。
(初:08.08.20)