クォ・ヴァディス 02

1-1

 群島に春を告げる風が吹く三月。オベル王国。
 旧クールーク皇国沖の南海に点在する群島諸国の中で、ガイエン公国に継ぐ面積を誇る島国であり、現在は政治的に最大の勢力を誇る海運国である。
 二年前、クールーク皇国が南海への勢力拡大をはかり、群島地方を侵略したことがきっかけで起こった群島解放戦争。オベル王国は、この大国との戦争において、国王リノ・エン・クルデスを中心に群島側の中心勢力となり、巨大なクールーク皇国海軍を相手に戦い抜き、ついにはこれを退けた。戦後には群島の島々を一つの共同体とする「群島諸国連合」の設立を提唱、そのリーダーの地位を確立した。
 そして、その一年後、クールーク皇国の瓦解のきっかけとなったいわゆる「イスカスの政変」に介入し、その瓦解を見届けて以降は、オベル王国は群島で最大の面積を誇るガイエン公国をしのぎ、名実ともにその地位を揺るぎないものとした。その元来の闊達で自由な空気に、更に翼を得たような勢いで、人文と経済の中心地となっていた。

 オベル国王リノ・エン・クルデスは、施政者としての例に漏れず、人材の収集には貪欲だった。勢いのあるオベル王国とはいえ、群島解放戦争とその後の政変を経て瓦解したクールーク皇国の例は、リノ・エン・クルデスの危機感を強烈に煽ったらしい。
 彼は若く才能のある者たちを多くオベルに招きいれた。その中には、解放戦争でリノ・エン・クルデスとともに戦った若者も少なくない。彼らは、オベルの政治や経済に新風を吹きこみ、その活発化に大きな影響を与え続けている。

 そして、そんな新勢力の家臣たちの中でも、ひときわ若く、ひときわ活動的な者が、ミレイという女性だった。
 ミレイは、年齢的には、「女性」というよりも未だ「少女」と称するのが正しいであろう。
 戦前までは、その美貌が海の男たちの話題になるくらいの普通の少女であったが、奇妙な縁あってリノ・エン・クルデス、そして解放軍のリーダーであったマクスウェルという少年と出会ってから、その秘めた剣と魔法の才を一気に開花させて、マクスウェルの下で数々の功績を挙げた。
 戦後はオベル王国に仕官し、いまや十九歳にして、オベル王国の一軍を預かる将軍にまで登りつめていた。

 オベル王国はどちらかといえば「外交巧者」という風習の国で、特別に頑強な軍事国家というわけではないが、群島諸国連合の盟主という立場上、体裁を整えておく必要があった。
 戦後に提唱されたばかりの群島諸国連合は、お世辞にも一枚岩と言える結束力はない。オベルは「連合の盟主」という名にふさわしい恰好をつけておく必要があったのだ。
 国王リノ・エン・クルデスは、「示威のための軍事力」の意義を正確に認識していたから、そのための体裁を整えることに対してはなんの躊躇もなく、ミレイなど、若くて有能な指揮官を多く登用し、軍容を新たにしたのである。
 そして、その中枢となるべき部隊を預かるのが、彼女だった。

 三月一五日。
 そのミレイは今日も眠い目をこすりながら、国王臨席の御前会議に出席するため、王宮に参じている。
 我を正面に出すタイプではないミレイにとって、自分よりも年上の部下たちを纏めるのは、それだけで難事業だった。
 海戦部隊といえば聞こえはいいが、中身は陽気で荒々しい海の男たちの集団である。彼らはミレイの実力と実績とに敬意を払いながらも、年下の司令官を口悪くからかって楽しんでいる困った一面がある。
 そして更に困ったことに、ミレイは、悪意はないが口の悪いジョークにとことん慣れていなかった。そんなこんなで悪戦苦闘しながらも、いざというときにはとっさに一枚岩となるのが、ミレイ部隊のわからないところで、要は、隊長も部下たちもお互いのことが好きなのであった。
 愛情表現の屈折している海の男たちと、何事にも正面からしか向き合えない不器用なミレイとの、ぎくしゃくした、それでいて不思議としっくりしている結合だったのである。

「ふう……」

 王宮前の、良く整備された観賞用の池の前で立ち止まり、その水面に自分の顔を映して、ミレイは小さなため息を漏らす。
 その目の下には、薄いながらも隈が見て取れる。
 扱い辛い部下たちをいかに制御するか、その訓練方法から運営手段に至るまで、考えなければならないことはいくらでもある。将軍職を得てから間のないミレイにとって、それを考案し纏めるだけでも膨大な時間を必要とした。
 昼間の勤務中は、削れる時間など既に一分もないので、自然と残った睡眠時間が削られる、といった具合である。

(こんなことでは、先が思いやられるわ……)

 ミレイは思わずもう一つため息をつく。
 こんな時、彼女が想起するのは、自分と同年代の一人の少年の顔だった。
 群島解放戦争時、クールークの侵略に対する解放軍のリーダーとして戦争を群島側の勝利に導いた、若き「罰の英雄」マクスウェル。

 彼は、その深い度量と静かな笑顔で、全てを許した。
 自分を窮地に追い込んだ旧友、スノウ・フィンガーフートも。
 自分の故郷を占領していた敵将のヘルムートも。
 そして、死闘を繰り広げたクールーク第二艦隊提督、コルトンですらも。

 その度量の大きさが、ミレイを含む、様々な人間を彼の元に集めさせ、解放軍内部の実力者であった海賊の首魁キカ、オベル国王リノ・エン・クルデス、そして軍師エレノア・シルバーバーグらを、仲たがいさせることもなく、奇跡の勝利に導いたのだ。

 奇跡。そう、あの勝利は、今にして思えばまさに奇跡としか言いようがない。当時は連勝に次ぐ連勝で、解放軍の意気高く、ミレイ自身も敗北など想像もしなかった。
 だが今になって冷静に思えば、薄ら寒さすら覚えるのだ。あの勝利がいかに危険な可能性のうえにあったものであるか。
 戦争中にいくつもの作戦が実行されたが、そのどれか一つでも失敗していれば、この群島の勝利はなかったのだ。
 そうなれば、当然だが戦争には敗れ、解放軍の主だった幹部はすべて処刑されただろう。
 自分は運がよければ生き残れたかもしれない。だがそれは、奴隷としての生であって、これまでのような、そして現実の今現在のような、輝くような生命力を発揮することは、不可能であったに違いない。

 そして、その不可能を可能としてしまったのが、キカとリノの統率力、エレノアの策謀、そして、それらを全て包み込み、纏め上げたマクスウェルなのだった。

(自分と同年代のマクスウェル様が、それだけのことをされているのに……)

 思わず自分に重ね合わせて、ミレイは再びため息をつく。
 ミレイは感情を前面に出すことはあまりないが、それでもプライドはある。
「同年代のあの人にできて、私にできないはずがない」と、そう思う気持ちも、少なからずはあるのだ。
 だが、戦時中のマクスウェルを、誰よりも近くで見ていたのは、他の誰でもない、マクスウェルの護衛をつとめたミレイ自身である。
 静かな笑顔の裏に隠された何事にも動じない豪胆さと、もはや悟りの境地に達していたとすら思える心深さは、ミレイの及ぶところではなかった。
 そのマクスウェル評には、彼に対するミレイの、崇拝に近い尊敬の念によるフィルターがいくらかかかってはいたが、事実として、リノやキカのような傑物どころか、ミレイは自分の部下すら統御しきれていないと思っていたから、自分自身と彼の差を、痛感せざるを得なかった。

 だが、だからと言って、「できない」と職務を放り投げてしまうわけにもいかなかった。どんなことがあっても、「やらなければならない」のだ。
 どんな小さなことからでもやりとげなければ、マクスウェルに追いつくことなど、それこそ永遠の夢想に過ぎない。
 こと、「軍事」という同じ土俵ならば、なおさら目標としては最高の人物ではある。ミレイはそうして、目標とする人物を、自分を映す「鏡」として使うことができた。それは現在から将来にわたって、彼女の最大の美徳となる。

 ミレイは情けない表情を組みなおし、持っていたファイルで頬を一つ叩くと、王宮に足を向けた。

1-2

 国王リノ・エン・クルデスを首座とする御前会議は、腹心セツの謹直な宣言で始まった。
 オベルの新旧の重臣たちが列席し、政治や軍事の様々な部門の現状が報告され、今後の政策について国王の詔勅と認可を頂く。現状が好ましければ、国王から豪快なお褒めの言葉を頂き、好ましくなければ遠慮がちな叱責が下された。
 白色の髪をやや逆立て、同色の短めの顎鬚を持つ長身の国王は、人を見定め、認めるのは好きだったが、見咎めたり叱責するのはあまり好まなかったようだ。若い部下達を、ささいなミスで落ち込ませたくはなかったのだろう。立場上、必要なときには怒りを見せることもあったが、褒めるときには常に、怒るときの倍の大きさの声で褒めた。
 会議の参列者は、国王リノ、王女フレア、腹心セツ、その他、政治・軍事の重臣二十名で構成され、ミレイはその末席に席を与えられている。
 戦前に比べて、参加者数は倍増している。そして、近衛司令官トリスタン、軍剣術師範ジェレミーなど、その新参の家臣の殆どが、戦中にマクスウェルとリノ・エン・クルデスによって見出された者たちだった。

 リノ・エン・クルデスは、豪放に見えて謹直な性格であり、会議が硬直するということはなかったが、それはここ最近の光景である。戦前までは、腹心セツが、細かいことが苦手な国王を叱咤発奮させて、無理やり御前会議を進めていた感があった。
 リノ・エン・クルデスの持つカリスマ性と、彼自身の政治力から言えば、何事も国王一人で推し進めることは不可能ではない。もともとリノは、彼一人でできることをいちいち「会議にかける」という回りくどさを苦手としていた。だが、それでは未来のためにならぬ、と、セツは思っている。
 リノが生きている間は、それでよい。
 だが、いざ国王不在の状況、最悪の場合、国王が崩御するような状況に陥ってしまった場合、リノ一人がいなくなっただけで、政府が半身不随に陥るようなことだけは、あってはならぬのだった。
 権力は国王への一極集中でよいが、王位の継承にあたっては、その権力が穏便に継承者に譲渡されなければならぬ。
 いずれにしても、老いたセツの死後のことではあろうけれども、その準備は早くにするに越したことはない。
 なにがいつ起こるかわからないのが、人の世というものであるから、御前会議と政府、国王を補佐すべき体制をかたちとして、残しておかねばならなかった。

 オベル王家は代々、自ら無茶な行動力を有しており、国王自身はもちろん、王女のフレアまでもが、若い頃から自ら軍船を指揮して海上の哨戒活動に従事している。
 腹心セツは、フレアが唯一の王位継承者であることもあり、彼女にもしものことがあってはと、口がすっぱくなるほど諫めたが、父であるリノは完全に黙認しており、残念ながら二十三歳になる現在でも、フレアの行動力は止まることを知らない。
 これはリノが、十三の歳から自らも海上を駆っていたこともあって、娘に大きなことは言えないのだが、それ以上に、王家の者として、海の民の暮らしというものを見て知っておくのは当然である、という確固たる信念があった。
 いくら優秀な画家であろうと、作家であろうと、自らが見たことも聞いたこともないものを、美しく表現することは不可能なはずである。どうして政治だけが例外と言えるだろう?
 どれほど偉大な王君であろうと、見たことのない生活形態について、正しく導き、正しく責任が取れるはずがないのだった。
 これはこれで、セツの胃を痛めるには充分な考え方ではあったが……。

 そのフレア王女がミレイに声をかけてきたのは、会議後、王宮の回廊でのことである。会議において、ミレイは国王から特別に栄誉ある言葉は頂かなかったが、逆にこれといって叱責も受けなかった。自分の現状ならば、まず上出来であろう。

「ミレイさん、お疲れ様。その様子だと、昨日もあまり寝ていないのでしょう。
 だめよ、女の子なんだから、どれだけ忙しくても、身だしなみには気をつけないと」

「申し訳ありません……」

 フレアの言葉に、ミレイは疲れたような低い返事をした。実際に疲れてはいたのだが、重要な会議をないがしろにして睡眠時間に当てるわけにもいかない。
 昼からの軍事訓練や、夕方からの雑務など、仕事だけなら、海岸の砂の数ほどあり、思い出すだけで有難いくらいに疲れそうだったので、ミレイはとりあえず目前のフレアに意識を集中した。
 年齢が近く、また何よりも同性ということもあって、フレアはミレイを特に目をかけた。解放戦争当時は、二人ともリノとマクスウェルの指揮の下で、最前線で戦った仲である。
 当然、新参の家臣と王家との結合を、古参の家臣は快く思っていなかったが、フレアは大人たちの愚かな思惑など、まるで気にした風もない。

「それで殿下、わたくしめに、どのような御用でございましょう」

 王家に対するミレイの言葉は、いつでも堅苦しい。それは、一臣下の身分では当たり前のことなのだが、友人として接しているフレアにとっては、少々もどかしさも感じる。
 だが、あえてそれに対しては言及しなかった。お互いに立場というものがあり、フレアはもう、それが解らぬ年齢ではない。逆に、王家であろうと重臣であろうと、心のままに接するマクスウェルのほうが、ある意味で変人であるのだった。
 フレアは笑顔をミレイに向ける。

「ミレイさん、あなたの本日の昼からの職務は?」

「は、いつもの通り、訓練と庶務が入っておりますが」

「そう。じゃあ、それらは全てキャンセルするか、副官に委任してください」

「はあ?」

 真面目な彼女らしくない、素っ頓狂な声が、思わずミレイの口から漏れた。
 だが、フレアの表情が少し険しくなったことに気づき、ミレイは礼をする。

「申し訳ありません」

「いいわ、驚くのも当然のことだから」

 フレアは首を一つ振って周囲を確認し、ミレイの耳元に口を寄せる。

「お父さん、国王陛下から貴方に密命が下りました。すぐに信頼できる部下数名を連れて、マクスウェルのいる無人島へ向かい、彼を王宮に連れてくるように、と」

 重大な密命は、むしろ淡々とミレイの鼓膜を奮わせた。
 だが、尊敬するマクスウェルの名前が出たことで、ミレイはすぐに動揺の表情を見せる。

「マクスウェル様に、なにかが!?」

「それはわからないわ。でも、お父様にはなにか含むところがありそうよ。あの人の危機察知能力は、人間の常識を超えているから」

 フレアが何かにつけて豪快な父を人間扱いしないことはいつものことで、苦笑を閃かけさせたミレイは、それでもぐっと表情を引き締めて、フレアに対した。

「わかりました。マクスウェル様の危機ならば、喜んで拝命致します」

「お願いね。お父さんも、貴方だから託せると思うから」

「了解いたしました」

 ミレイは背筋を伸ばして敬礼をすると、先ほどまでの疲労が嘘のように、駆け出した。
 その様を見て、フレアが軽く微笑む。どのような大役に就こうとも、ミレイが最もやりがいを感じるのは、マクスウェル「個人」の護衛という立場なのかもしれない。

 本人たちが気にする以上に、周囲は、マクスウェルという少年を介して、この二人を勝手に複雑な関係に落とし込んでいる。
 ミレイが、戦争中からマクスウェルに惹かれていたことは、半ば公然の秘密であった。
 また戦争中、リノ・エン・クルデスがマクスウェルを一度は自らの後継者に指名したのは有名な話だが、そのためにマクスウェルをフレアの婿に迎えようとしているのではないか、という憶測は、国王自身が一度も言明したことがないにも関わらず、半ば事実として、民衆の間では流布している話だった。

 そしてこの根拠のない噂話をもとに、王宮内の重臣たちがあれこれと自分の立場を気に病むのは、フレアにすれば馬鹿馬鹿しい。彼女自身は両親のように、大恋愛を一度でも経験してから結婚するつもりだったのだ。
 マクスウェルが、その大恋愛の相手となる可能性はゼロではない。彼は彼で、父に似た鷹揚さを持つ、魅力的な男性ではある。
 だが、フレアにとってマクスウェルは、もはや手のかかる弟のような身近な存在となっており、二人の関係がこれから恋愛に発展するのは難しいだろう、とフレア自身も思っている。

 だが今は、フレアはミレイが一刻も早く、マクスウェルをこの王宮に連れてくることを望んだ。
 何事もなければ、それでよし。だが、父の憂慮が本物であるのなら、彼の姉的存在であるフレアにしても、無関係な問題ではなかったのだから。

COMMENT

(初:08.08.20)