船上にて

 流れの緩やかなフェイタス川の支流。
 時は夜半を越え、月は波間にあって、その形を複雑に変えている。
 ゆっくりと動く双胴船の上、ルセリナ・バロウズはその身を木製の手すりに預け、静かにその波間を眺めていた。
 元が大河であるとはいえ、支流である。
 川幅は確かに広いが、今はまるで、ルセリナの視線の遥か向こうまで水面が続いているようにも見えた。
 それは、時刻ゆえの灯りも充分でない微妙な明るさの為か、それとも、沈んではおれぬと言い聞かせながらも、少しずつ底辺へずれ込もうとする、彼女自信の不安定な心のバランスゆえか。

 ウェーブのかかった黄金の長い髪も、活発な生気の宿った瞳も、その細く白い腕も、周囲の誰をも魅了せずにはいられなかったが、今宵の彼女が漏らす吐息は、安直な異性の接近も、心地よき筈の安寧の言葉も、やんわりと拒絶しているように見えた。
 その美しい顔は翳り、瞳も活発な生気をやや失っているように見えた。

 ファレナの元老であり、有力貴族のなかでも最大派閥の一つであるゴドウィン家が起こした「クーデター」から半月。
 女王家を中心とし、ゴドウィンとバロウズの両家を両端に乗せた権力のシーソーは、二年前、女王アルシュタート陛下が太陽の紋章を身に宿し、ロードレイクを焼き尽くした時も、激しく動きこそすれ、倒れることはなかった。
 だが今、ギゼル・ゴドウィンの策略と強行手段のためにアルシュタート陛下とフェリド女王騎士長が弑逆しいぎゃくされ、そのシーソーは最も無残な形で転倒している。
 一時期、ギゼルの手を逃れた王子を、ルセリナの父サルムが匿い、利用する形で、新たなシーソーが形成されるかに見えた。
 だがそれも、サルム・バロウズの描いた設計図通りの形を見る前に、他の誰ならぬ王子自身の手によって突き崩された。
 軍師であるルクレティア・メルセスの入れ知恵があったとはいえ、王子は自分が政治の為の駒とされることを、その行動をもって自ら拒んだのだった。
 過去に秘かに起こした政治的大罪の罰を今受ける形で、サルムとバロウズ家は完全に失墜した。
 王子を懐に引き入れ、国を簒奪したゴドウィンに対して、政治の正道に躍進したと思えた直後のそれは、正に「天国から地獄へ」という言葉を視覚的に具現化したかのような有様であった。
 サルムの長女ルセリナは、自分からバロウズ家を見限りながら、父の罪を償うことを生涯の目的として、国と首都の奪還とゴドウィンの討伐を掲げる王子の軍に、自らその身を投じたのだった。

「寒い……」

 ふと思考の糸が途切れ、ルセリナは身を震わせる。
 季節は夏を少々過ぎ、秋に入るところであった。
 まだ日中は暑さを残しているとはいえ、この夜間、しかも水上にあると、気温はぐっと下がる。
 激しい内戦に発展するであろうこれからを思えば、毎年の如く美しいファレナの秋の実りを接することは出来ないかもしれなかった。
 そう思うと、身の震えを止めることができなかった。

「まだ、眠らないのか?」

 不意に背後から声をかけられて、ルセリナは慌てて振り向いた。
 彼女を心理的な憂慮の檻から救い出したのは、彼女に劣らず美しい男性だった。
 月と太陽に映える白銀の髪を背中で編んでまとめた、まだ少年といって良い年代の男性。
 この軍の指導者であり、亡きアルシュタート女王とフェリド女王騎士長の長子、ファルーシュ王子である。

「あ……、はい……」

 月を背に笑顔を向けるファルーシュに、一瞬より少しだけ長い時間見とれていたルセリナは、ふと我に返って、たどたどしくも頷いた。
 ファレナ女王家の人々は、皆例外なく美しい容貌の持ち主であった。
 亡きアルシュタートも、王子の妹君で時期女王のリムスレーアも、アルシュタートの妹で王子とリムスレーアの叔母にあたるサイアリーズも、それぞれに特長を備えた美しさの持ち主であり、女王家が民衆より絶大な支持を受ける要因の五パー セントほどにはなっているであろう。
 女王家の名のとおり、ファレナは代々女性が王位を継承し、男性王族には王位継承権は与えられない。
 そのことが原因で心腐らせた過去の男性王族が幾人もいる中で、若いせいもあろうが、少なくとも今のところ、このファルーシュはその枷から自由だった。

 ファルーシュは不思議な魅力の持ち主だった。
 どちらかと言えば細面であり、剛毅に大言を吐くこともなければ豪快に天を向いて笑うこともなかったが、その静かな笑顔には常に自信が溢れていた。
 また、やや筋肉質ではあるけれども、バランスの取れた肉づきの身体であり、特別に分厚い筋肉に守られているわけでもなく、強力ごうりきでもって獣を打ち倒すこともなかったが、不思議と周囲にいるものを安堵させる空気をその身に纏っていた。
 それは間違いなく、父親であるフェリドから受け継いだものだった。
 このファルーシュとルセリナは、過去に一度だけソルファレナの晩餐会で顔を合わせたことがある。
 二人ともそれを覚えてはいたが、当時いずれも十歳にならぬ年齢であり、「覚えていた」というだけで特別なエピソードがあったわけではない。
 だが、この奇異な状況がもたらした再会が、二人の未来をどのように交錯させるかは、今のところ誰にも解らなかったが。

 慌てて我に返ったためか、しばらくルセリナが何も言えないでいると、ファルーシュはゆったりとした足取りで彼女の隣に立った。
 そして、手すりに背中と体重を預ける。

「殿下?」

 ルセリナが不思議そうな顔でファルーシュの表情を覗き込む。
 ファルーシュは一度俯いてから表情を消し、暫く空を見上げた。
 大船団であるラフトフリートの深夜の微かな生活光に、暗闇の中に薄っすらとやはり黒い雲が流れていくのがわかる。
 一瞬か二瞬か、微妙な時間、空を見上げた後、彼はルセリナに向き直った。

「辛くないか、ルセリナ」

「……え?」

 何を言われたのか理解するのに数瞬かかって、ルセリナはようやくそれだけを返した。
 彼女に向けられたファルーシュの口元と目元は、安寧と心配とを、微妙に混合しているように見えた。

「いや……、この半日、ひどく悩んでいたようだったから。
 君が、自分がバロウズの人間でいることに、辛さを覚えているんじゃないかと思って」

 何気ない一言に、ルセリナの呼吸が一瞬止まった。
 誰にも言えぬと思っていた悩みを、見事に言い当てられた。
 それも、失礼な話ではあるが、一番想像していなかった人物に。

 ルセリナは、ファルーシュが逃亡者として、サイアリーズやリオン、ゲオルグ等と共にウィルド卿に保護され、レインウォールに来てからというもの、常に彼の身の世話を焼いてきた。
 父と王子の間に入って仲を取り持ち、時には、父の政治的思惑を王子やサイアリーズ等に告げて共に対策を練った。
 ファルーシュの側としても、へつらう表情と丁寧な言葉の後ろにある下卑げひた政治的な野心をあからさまするサルム・バロウズよりも、率直に父の非を鳴らし、献身的に王子の身を案ずるルセリナを信頼した。
 サルムの過去の悪行が露になり、王子がバロウズ家を見限った折、怒りに燃えるサイアリーズがサルムを害さなかったのも、みなルセリナのこれまでの献身を思ったからであった。

 ファルーシュは、少しだけ顔を傾けて、ルセリナの表情の変化を見ている。

「お恥ずかしい話ですが、正解ですわ、殿下」

 一瞬の後、ルセリナは笑顔を見せた。
 僅かな風になびく髪を押さえ、整える。
 ファルーシュは、その笑顔を偽りなく美しいと思ったが、小さな違和感が拭えなかった。
 それは、空気のように透き通りすぎた笑顔だった。
 ルセリナは静かに語る。

「私は、自分の意思で殿下の軍に参加いたしました。
 そのことに対しては、なんの後悔も後ろめたさもありません。
 僅か半日ですけれども、自分の行動には誇りを持っています。
 けれど……」

 自分の胸元に小さな手を沿え、それをきゅっと握り締める。

「それは、過去の自分からの逃避ではないのかと。
 そう……思えてしまうのです……」

 ルセリナは、押し潰されそうな自分への嫌悪感と、必死に格闘していたのだった。
 プライドばかり高く、実務面では丸っきり役に立たない兄ユーラムに代わり、父が首都ソルファレナに出向いている時にバロウズ領の管理を一手に引き受けたのは彼女である。
 元来の美しさに加え、十代とは思えぬその利発さに膨大な実務の経験を得たルセリナ・バロウズの評価は、高まるばかりであった。
 ルセリナ自身も、彼女なりに自分の仕事に満足もしていたし、与えられる評価を誇りとしていた。

 しかし、その行き着いた先が、今の現実であった。
 父は大逆の人として同志も信頼も全てを失い、自分は「逃げるように」バロウズ家とレインウォールの領民の前から去った。
 サルムの起こした過去の事件が、今のファレナ分裂の根源的な元凶であったと知った瞬間のルセリナの絶望感は、とても計り知れたものではなかった。
 知らなかった―あるいは知らされなかった―とはいえ、自分が国と領民の為と思ってしてきたことが、全てそれらへの裏切り行為への加担でしかなかったかも知れないのである。
 なまじ評価が高く誇りを持っていただけに、それらが全て一瞬で、しかも見事に裏に返った失望感・失墜感は、少々のことでは拭えそうになかった。
 そして、そのような身で、美しいファレナの秋を待望すること自体が、罪深いことと思えて仕方なかったのである。

 ルセリナは元来、政治的に強い人ではなかった。
 あるいは、目的のためならばあらゆる策を仮借なく用いるギゼル・ゴドウィンや、常に自分が損をしないように慎重に計算を重ねるサルム・バロウズのほうが、政治的なセンスでも経験でも、明らかに上だった。
 だが、それが故に評判を地に墜とした彼らと異なり、逆にそれらの要素を用いえず、あくまで清廉で、そして潔白であったがゆえに、ルセリナ自身は救われた。
 彼女がその皮肉めいた事実を実感することになるのは、この暫く後のことではあるが。

 王子は、ルセリナの告白を静かに聴いていた。
 呆れているのかもしれない、或いは見下げられたかもしれない、と、彼の表情を見ることにルセリナは一掴みの勇気を必要とした。
 隠していたことが明白となった後も、なおそれを隠し続けようとする卑怯さとは、ルセリナは無縁だったが、ことが自分の心情であれば、それを正面から直視するには、彼女は少し若すぎた。

 ファルーシュは静かに、一つだけ頷いた。
 だが、彼が次に発した言葉は、ルセリナの意表を突いた。

「ならば……本当に逃げてみるかい?」

「は?」

 余りに意外な言葉だったからに違いない、思わずルセリナは気の抜けた言葉を返してしまっていた。

「で、殿下、しかしそれは……」

 思わず乗り出して意を正そうとするルセリナを、ファルーシュはやんわりと止めた。
 ルセリナとしては、自分が必要とされていないのではないかという思いを瞬間的に抱いてしまい、とても落ち着いてはいられなかったのだが、とにかくファルーシュはそれを御して、彼女に聞くように言った。

「バロウズ家の人間としての過去が辛いのならば、それから逃げてしまうことは罪じゃない、ということさ。
 レインウォールの人間で、君の事を恨んでいる者など居はしない。
 君がバロウズを捨てても、惜しみこそすれ、恨む者はいないだろう」

「…………………………………………」

「僕だって王族の端くれだ。嫡なきまま捨て置かれた家の名を君に継がせる事もできるし、新たな貴族家を創設することだって出来る。
 君がどこかに身を隠しても、君一人食わせるくらいの器量はあるつもりだ」

 そしてそこまで言い終え、一旦言葉を切る。
 口調を整える為ではなく、心の方を落ち着かせるためだった。
 ファルーシュは、言葉を続けるうちに表情を引き締めた。
 どこまで本心で言っているのかを見極めているルセリナの視線から逃げることはなかった。

「我が軍にとって、君は居なくてはならない存在だ。
 機転が効くし、政治的センスもある。僕への助言だって誤ったことはない。
 君が過去に捕われることなく、前向きに仕事が出来るのであれば、僕は協力を惜しまない」

 言い終えるまでの、そして言い終えてからのファルーシュから、ルセリナは一秒も目を逸らさなかった。
 彼の言葉は真摯であり、その提案も心機一転という意味では魅力的ではあった。
 だが、ルセリナの揺れ動く気持ちを本当に固定させたのは、別の一言だった。

 ルセリナは深々とファルーシュに頭を下げる。

「殿下、私如きの身を案じていただき、本当にありがとうございます。ですが……」

 ゆっくりと顔を挙げ、ファルーシュに顔を向ける。
 ルセリナの表情は、先ほどまでの憂慮が嘘であるかのように、やわらかな笑顔に包まれていた。

「ですが、やはり私はルセリナ・バロウズとして、民と国家のために父の不明を償います。
 わが身が殿下に必要とされている、そう言って頂けただけで、私は道を誤ることはありません」

 考えてみれば、ルセリナは常に誰かのために働いてきたのではなかったか。
 心を病んで倒れた母の世話をしている時もそうだったし、政治を見ているときもそうだった。
 ロードレイクの暴動後、いっそう不安定になりゆく政情と対話しながら、民のために心を砕いた。
 だが、彼女への評価が高まり、彼女自身もそれを誇りとしていくなかで、いつからがそれが自分の中で当然のものとなっていなかったか。
 評価が下がるのを恐れ、人気取りのために行う政策は、政治の本質から乖離するものであり、政治的野心が膨れ上がる悪しき温床となる。
 それはいつか領民を食いつぶし、彼女自身を食いつぶし、そして国を滅ぼす元凶となるであろう。
 彼女の父のように。
 今、こうして改めて自分が必要とされているところに身を置いて働けることは、その岐路に立っていた自分を原点に立ち返らせる意味で、最高の薬なのかもしれなかった。

「そうか」

 善意を謝絶されたにも関わらず、ファルーシュも気分を害することはなかった。
 彼にとっては、ルセリナをたち直させることが第一であり、方法云々は二の次だった。
 改姓を提案したのも、それが彼に出来る最も手っ取り早く、かつ強力な方法だったからである。

「ですが……」

 ルセリナは笑顔のまま、言葉を続ける。

「殿下が私のために御心を砕いてくださるのは光栄です。……素直に言えば、嬉しいです。
 ですが、殿下の御心と優しさは、やはり国民皆に平等に向けられるべきです。
 殿下には成すべき大義と目的があります。
 そのお力添えが出来るのであれば、才乏しき身ながら、ルセリナは常に殿下のせなで、全力を尽くさせて頂きます」

 このあたりが、ルセリナの若さの限界というか、不器用さの表れだったかもしれない。
 ルセリナがファルーシュに惹かれていることは、ルセリナが自分でも理解している事実だった。
 父が自分とファルーシュの婚姻を目論んでいると知った時、婚姻を政治目的に弄ぶ父に対する嫌悪感とは別に、その婚姻という魅力的な一面を見出してしまったのも事実である。
 だが、ルセリナ自身恋愛経験がないということもあったし、なにより身分が違った。
 相手が貴族であれば、ルセルナにも心理的な動揺があったであろうが、相手が王族であれば、やはり現実感というものが沸かなかったのだ。
 ファルーシュが男性として魅力的な存在であることは間違いなかったが、同じ場所に立ち、食事を共にしても、やはり生まれてから植えつけられた感覚というのは、なかなか抜けなかった。
 身近な存在でありながら、同時に空気のようで、手の届かない存在のようだった。
 ルセリナは、ファルーシュに対して持っている好意がどういうものなのか、未だ理解しきれていなかった。

 もっとも、この点についてはファルーシュも同様であった。
 友人の一人として捕らえている分、ルセリナが思っているよりも身近ではあったかもしれないが。

「わかった。君のその決意を汚さぬよう、僕も全力を尽くす。
 だが、君の背中にも常に僕たちがいる。そのことは忘れないで欲しい」

 ファルーシュに肩をかるく叩かれて、ルセリナは「はい!」と、元気に礼をした。
 常に上品で大人しい印象がある彼女がファルーシュに初めて見せた、輝くような笑顔だった。

 夜はいつか明ける。
 全ての人間がそう願う。
 だが、自力で闇を払える人間は、ごく僅かである。
 自分が仕えているのは、そういう人物なのだ。
 そのことを誇りとして、この後ルセリナの姿と心は、常に王子の傍にありつづけた。

(Fin)

COMMENT

 最後にサイアリーズとルクレティアの会話を入れようかと思ったんですが、やめときました。
 王子×リオンはあまり好きではなく、私はやはり王子×ルセリナ派です。

(初:06.08.20)
(改:06.11.19)