リキエは月を見上げる。自らの故郷から遠く離れたオベルの地で、黄金の月を見上げる。
オベル王宮の西にある迷宮遺跡。その内部を踏破してたどり着く、一本の大樹。
大陸から隔絶した島国オベルで独自の進化を遂げたシダレザクラ、オベリア。真紅の花を咲かせる、血と炎に例えられる樹だ。
リキエは長男のラクジーとともに、長い長い葛藤の旅の果てに、ここにたどり着いた。
オベル国民にとって、オベリアの花は様々な意味を持つ。しかし、その中でもこの「遺跡のサクラ」は、リキエにとって、まったく異質な存在だった。
樹の根元に、小さな墓がある。リキエも名を知らぬ、無名の冒険者の墓。まるで何かを訴えるかのように、白骨化した腕が地面から天に伸びていた。
その意思を知る者はほとんどいない。この墓の主がどのような思いでその命を潰えたのか、なにが原因でこのような壮烈な死を迎えたのか、知る者はほとんどいない。
リキエは、その「原因」を知る、数少ない一人だ。
なぜ、それを知りえたのか。
自らの愛した人が、同じく辿った意思だからだ。
この無名の冒険者の壮烈な末期が、おそらくそのまま自分の愛した人の末期と同じだからだ。
それを知るために、リキエとラクジーはナ・ナルから遠くオベルへ、そしてこの遺跡にたどり着いたのだ。
三年前、リキエの夫は突然、彼女の前から姿を消した。
理由も原因も、まったく分からなかった。どこにでも存在する幸福な家庭の風景から突然、ピースの一つが欠けた。
それから、リキエとラクジーの生活は一変した。誰もが同情はしてくれた。だが、同情は心の空隙をわずかに埋めることはできても、失われたものを完全に補うことはできない。
リキエはラクジーを連れ、群島中を、夫の面影を求めて放浪した。
それは、傷心を慰める旅ではなかった。夫の生存を最後まで信じ、その足取りを追い、小さな小さなピースを寄り合わせて再構築する、途方もない道のりだった。
そして三年という時間をかけ、リキエはこのサクラにたどり着いた。
「罰の紋章」が封印されていたという、このサクラの元に。
「罰の紋章」。
世界の根源に関わるとされる、真の二十七の紋章の一つ。
「やみ」の涙から分かたれたその二十七は、それぞれに重い業を背負う。しかし、「許し」と「償い」をつかさどるという、この「罰」の業は、とりわけ重い。
この紋章は、自らがつかさどる事象の名目に反して、宿る者の命を次々に食らい尽くす。そしてすべてを食らい尽くした後、次の宿主へと移る。
「真の紋章」の持つ「意思」は、人間に理解できるものではないし、御することができるものでもない、と言われる。
だが、それに「憑依」され「食い尽くされた」者たちが、その最後を「運命」の一言で済ませて、納得して死んでいくのか。
……それは別の話だ。
リキエは月を見上げる。自らの故郷から遠く離れたオベルの地で、黄金の月を見上げる。
自分の夫が「罰の紋章」に選ばれ、寄生されてしまったところまでは、自分で調べえた。だが、そこから夫の行方を調べることは、どうしてもできなかった。
夫の生存を証明する事実の糸がすべて切れてしまったとき、リキエはこの場所にたどりついていた。
夫と同じ運命を辿った者が眠る、この場所に。
……そして、リキエはここでマクスウェルと出会った。
「罰の紋章」をいま宿している少年。現在の、そしていまのところ「最後の」継承者。
彼が紋章を持っているということ。それは、夫から「罰の紋章」がはがれてしまったことを意味する。
それはすなわち、「死」という、一つの物語の結末のことだ。
オベル遺跡の海抜は高い。空気は澄み、地上よりも自然の色彩が濃い。
リキエが見上げる月も、その黄金の色彩を、無残なほどにはっきりと闇の空に浮かべている。
夫は、「罰の紋章」を宿してしまってから、どのような気持ちでこの月を見上げていたのか。リキエには、その心を汲むことはできない。
途方もない絶望に打ちのめされていたのか、それともわずかな希望にすがって気持ちを奮い立たせていたのか。
それを想像するには、夫の旅は荘厳に過ぎる。
「でも……」
リキエは思う。夫の最後の言葉。それは、容易に想像することができた。
強くはなかったけれど、何事もあきらめない人だった。いつも妻子とともに自分が幸せになることを考えていた人だった。
彼はどんな状況にあろうと、最期にはこう言ったはずだ。
「きっと、きっとまた……三人で……」
そうして最期まであきらめることなく、彼は家族との幸福を、自分の生還を模索していたに違いない。
リキエは、月を見上げた。
故郷から遠く離れたオベルの月。夫と彼女が生きた地平線を見下ろす、荘厳な月。
この月の元で、リキエは今でも、夫と同じ地平線の上で生きている。
夫が孤独に生き抜いた旅路を、辿ろうとしている。
私はまだ、さよならを言うことはできません。あなたとの日々を、思い出にすることもできません。
でも、あなたはいつも笑っている人だった。私も、あなたがそうしたように、いつも笑ってラクジーを見届けてあげたい。
私たちは、いつも三人です。私はきっと、あなたを探し出します。
どこかできっと出会えると、私は信じています。それが、私の心の中なのか、それともどこかの土地なのか、それは分からないけれど。
そうして、あなたと出会って、ほんとうに「さようなら」を言えるようになったとき、あなたはきっと笑顔でしょう。私もきっと笑顔でいることができるでしょう。
結局、最後はなにもかもが思い出になるのかもしれない。記憶の中にしまいこまれるページの一つになってしまうのかもしれない。
でも、私はあなたを探し続けます。あなたを見つけ出します。過去のものにしてしまうには、あなたとの青春は、私にとっては尊すぎるものだから。
私にとって、あなただけが、永遠なのだから。
夫が姿を消し、「罰の紋章」だけが、マクスウェルと共にリキエの元に還ってきた。
だが、リキエの旅は終わらない。足早に過ぎ去っていく時間のなかで、「罰の紋章」を見守りながら、夫の旅路を求めていこう。
過去に想いを。未来に決意を、ラクジーと共に。
リキエの旅は、終わらない。
(Fin)
(初:12.05.12)