リノ・エン・クルデスは月を見上げる。何度こうしたことだろう。何度こうして、後悔と寂寥とを心に投げかけたことだろう。
王宮の裏庭に生えた、一本のオベリアの木。オベリアは大陸から隔離されたオベルの、特有の植物だ。真っ赤な花を咲かせるシダレザクラの一種。
この木の下から、リノ・エン・クルデスは、何度こうして月を見上げたことだろう。
春。オベリアが真紅の花を咲かせたその下で、リノ・エン・クルデスは、時折目を閉じ、そのたくましい表情に、表現しつくせない感情をあらわにする。
決して部下には見せない、寂しさと切なさを。
リノ・エン・クルデスがこの桜を王宮の裏庭に植えたのは、十九年前だった。初恋の女性と長年の交際を実らせ、華燭の典を挙げた日。この木を、その日から彼の妻となった女性と共に植えた。
オベリアはオベルの国花だが、その真紅の花に対する人々のイメージは様々だ。豪壮な炎の勢いを連想する者もいれば、不吉に流れる血をイメージする者もいる。
リノ・エン・クルデスと新妻は前者だった。この真紅の桜を、新たなオベルの象徴として、そして自分たちの未来への気概として選んだ。それを間違いだと思ったこともない。
そして六年。長女と長男、二人の子供に恵まれた。
しかしそのとき、妻の左手には、宿ってはいけないものが宿ってしまった。
――「罰の紋章」。
許しと償いをつかさどる、真の紋章。
リノ・エン・クルデスは、その頃を思い起こすと、いまだに運命を呪わずにはいられない。
「許し」と「償い」?
彼の妻が、いったい何者に許しを請い、何者に償いをせねばならなかった?
すべては偶然だった。妻が紋章を宿したのも、その妻と子供たちの乗った船が海賊に襲われたのも、すべては偶然だった。
その偶然を、リノ・エン・クルデスは呪わずにはいられない。
なぜ、自分ではなかったのか。
なぜ、妻だったのか。
そして、なぜ自分がいない、妻と子供たちだけの「あの時」だったのか。
妻は子供たちを救うために「罰の紋章」を使った。
……そして、娘だけが帰ってきた。娘だけでも、妻は命がけで守り抜いた。
なぜそれが、夫であり父親である自分ではなかったのか。
結局、妻も長男も、帰ってはこなかった。オベル王国に多大な富と栄光を齎してきた海が、リノ・エン・クルデスからすべてを奪い去ってしまった。
悔やんでも悔やみきれぬ十九年。その時間を、リノは一心にオベルのために尽くした。妻のために尽くすことができなかった後悔を、そのまま国への献身に変えて生きてきた。
それで、なにが報われるわけでもない。わずか六年しか彼の元で暮らせなかった妻への贖罪が尽きるわけでもない。
オベルは精強に、そして豪壮な国となった。しかし、彼の妻が、それを見て微笑むことはない。リノの心に刺さった棘が抜けるわけでもない。
十九年、めぐりめぐって「罰の紋章」が、彼の元に戻ってきた。いなくなった長男と同じ年頃の男が、彼のもとにそれを持ってやってきた。
彼は良い人間だ。リノにとっては子供と同世代だが、尊敬に値する人間だ。そして、なぜかフレアに向けるものと同じような親心を刺激する人間だ。
だが、リノの心には、その敬意とは別に、素直に喜べぬ感情もあった。
「罰の紋章」だけが帰ってきた。妻は、帰ってこなかった。
妻は行方不明になった。死んだと決まったわけではない、と、どこかで言い聞かせていたのは確かだ。それが生きる糧の一つだったことも確かだ。
しかし、その淡すぎる、薄い薄い色の希望は、「罰の紋章」の帰還によってかき消された。「罰の紋章」が身体から離れること。それは、持ち主の「死」を意味する。
そのことを、誰よりも知っているのは彼だった。
リノ・エン・クルデスは月を見上げる。真紅の花を咲かせたシダレザクラの元で、黄金の月を見上げて、口元に寂寥を満たす。
年に一度、この日だけ、月にだけ見せる悔恨と痛恨。
何度こうしたことだろう。何度こうして、後悔と寂寥とを心に投げかけたことだろう。
リノの口がわずかに動く。声にならない声が、そこから漏れる。
「……すまん」
子供にも、部下にもいえない言葉。そして、見せることができない表情。
血を分けない家族。血を分けずにして一心同体。心をわけあえた妻という存在。
もう彼の心の底を、何も言わずにわかってくれた相手は、この世にはいない。ただもの言わぬ月とオベリアの桜だけが、その面影を残している。
(Fin)
(初:12.05.12)