「ふう……」
クリスは、目を覚まして身支度を整え、部屋の窓を開け、いつものように視界一杯に広がる朝の海を楽しんでいる。
魔術師にして真の紋章の継承者であるルックとの決戦が近いと目されている昨今、ヒュッテビュッケも、城全体の緊張の度合いが高まりつつある。
ゼクセン騎士団、及びシックス・クランの戦士だけではなく、各地より義勇兵等が集まり、ヒュッテビュッケ城は今や一大軍事拠点と化していた。
この城の三頭政治において軍事を担当するクリスにとって、単純に兵力が上がることは嬉しくもあったが、それだけ頭が痛い問題でもある。
血の温度が高い寄せ集めの連中ほど、統率をとるのが難しい集団はない。
彼女は、それを纏め上げ、作戦を実行し、かつ確実に勝利せねばならないのである。
ルック一党との決戦は、恐らく短期決戦。
それゆえに、一度の敗戦すら許されないのだ。
敵方であるルックが、自分の目的に焦慮を感じているのは確実だったが、それ以上に、彼女達にも余裕などないのだった。
いつものようにその美しい銀色の髪を纏め上げ、白銀の鎧を身につけて部屋を出ると、そこに彼女の参謀であるサロメが待っていた。
彼は一見、気苦労の多い中間管理職といった外見の所有者だが、クリスを含めた「誇り高き六騎士」の中でも特に智謀に長けた人であった。
武勇でクリスを補佐する他の四騎士とは異なる視点から、クリスを助けていた。
その彼が、クリスと共に朝の軍議に向かう。
会議室に向かう途上の僅かな時間は、クリスにとってもサロメにとっても貴重な時間であった。
お互いの意見を確認しあう時間であり、騎士団の意見を改めて纏める時間でもあった。
三英雄の下に集った英気の集団とはいえ、要は主義も主張も異なる者たちの寄せ集めである。
同じ目的の元に動いてはいるが、少なからず利害も打算もあるのだった。
自分たちの意見は意見として、しっかりと主張する必要はあるのだ。
「クリス様、なにやらシーザーがクリス様に大切なお話があるとか。
何か事前にお聞きですか?」
今朝もお互いの意見を確認したところで、サロメがそう切り出した。
「いや、何も聞いていないが」
少しだけ驚いた表情を見せたものの、クリスは足を止めなかった。
「シーザーが言うのなら、恐らく政治的なものだろうな。口説きや色恋の話題ではあるまい」
「……ぜひ、そう願いたいものですが」
こちらも表情を変えずサロメは答えたが、頭の中では戦々恐々である。
クリスの言うとおり、あの若き天才軍師の口から色恋の話題が出るとは考えにくい。
だが、何かの誤りでもしもそのようなことが現実に起これば、六騎士であるボルスやパーシヴァルが黙ってはおるまい。
彼等は、先日の「クリスのヒューゴ襲撃」から、表面上は落ち着きを取り戻しているように見えるが、その実、以前よりも増してクリスとヒューゴの一挙手一投足に注目している。
これにシーザーまで目の仇にするようになれば、騎士団が原因で三頭体制が崩れるような事態が起こりえるかもしれない。
可能性は極めて低いものの、ゼロではない以上、サロメは外だけではなく、内にまで目を向け、気を使わなくてはならぬ。
ナンバー2というのも、案外疲れるものであった。
「色々と気苦労をかけているようだな。まだまだ私も、精進が足りぬか?」
前を歩くクリスに、肩越しに声を掛けられ、サロメは恐縮した。
「いえ、私が好きでやっていることです。
どうぞお気になさらず、クリス様は今までどおり、ご自分の意志の赴くままにご活躍下さい」
それを支えるのが彼の仕事であり、生きがいであるのだった。
一時間後、熱の篭った朝の軍議が終了し、全員に飲み物が運ばれた時、シーザーがクリスに向けて口を開いた。
「クリスさん。あんたに、訪ねてほしい人物がいる」
意外と言えば意外な申し出に、クリスの視線がややきつくなる。
先ほどの軍議で、一致団結を熱く語ったのは、誰あろうシーザー本人である。
クリスはやや訝しげな感情を、その視線に込めた。
「どういうことだ。
ただでさえ切迫しているこの時期に、私が城を離れていては、なにかと不都合があるのではないか」
クリスの視線を受けても、シーザーはいつものように飄々とした表情を崩すことはない。
軍師として信頼に値する能力を充分に有するに若者ではあるが、やや物事を秘匿するような言動も多く、クリスはこの若者の作戦外の言動に万越の信頼を置きかねているのだった。
「確かに、それはあるかもしれない。
しかし、そのデメリットを差し引いても、こちら側に引き込みたい人間がいるんだ」
「それほどの人物がいるのか」
驚き半分で、クリスは思わず腕を組む。
言葉の端に、拭いきれない興味の色が垣間見えた。
しかしクリスは、自制心を働かせた。
「しかし、もう我が城にも有能な人材は多く集まっているし、兵力も数だけならかなり揃った。
決戦が近い今は、それを出来る限り調練したほうが効率が高いと思うが、如何?」
そして、それをできるのは、この城においてはクリスしかいない。
クランの族長であるルシアやデュパらにはそれぞれ一家言あるだろうが、こればかりは譲れなかった。
彼女自身の自負もあったし、今度の戦闘においては彼女等騎士団の戦闘手段が最も有効であろうことは、先の戦いで証明されている。
ルシアやデュパ、ヒューゴらが複雑な表情を浮かべる中、ジョー軍曹やサロメが視線で彼らを嗜めながら、彼らはクリスとシーザーの会話を聞いている。
「決戦が近いといっても、今日明日にいきなり始まるわけではないし、相手方の動向はゲド殿がしっかり掴んでいる。
緊急事態における対処のとり方は、あんたが普段から我々に叩き込んでくれているおかげで、まず問題はない。
一日程度は余裕をもってもいいだろう」
言葉の最後の方にやや苦笑を重ねて、シーザーが言った。
確かに、この場にゲドは同席していない。
城の三巨頭の一人であり、唯一、真の紋章を元より身につけていたゲドは、諜報や破壊工作といった行動に類稀な手腕を有していたから、この城を不在にすることも多かった。
クリスは、考えるような仕草でしばし固まった後、再びシーザーに視線を向けた。
「なるほど、君の言わんとすることは解った。
だが、それなら猶更、私よりも相応しい人間がいるのではないか?
自分で言うのも癪だが、私はこの通り融通も利かないし、弁舌が達者なわけでもない。
そういった交渉事には向かぬと思うが」
脇で二人の会話を聞いていたヒューゴが、思わず首肯しそうになるが、もしそれを実行していれば、彼は若い生命を散らすことになったろう。
だが、そのクリスの言葉もシーザーにとっては想定の範囲内であったのか、彼は一言だけをクリスに返した。
「では、相手が真の紋章の継承者だとしても……あんたは断るかい?」
「なに?」
思わず、場に緊張が走る。
真の紋章は、世界創世の根源に関わる絶対の存在であり、クリスが継承した真の水の紋章、ヒューゴが継承した真の炎の紋章、ゲドが身につけていた真の雷の紋章、ササライがその身に宿していた真の土の紋章など、世界に二十七、存在すると言われていた。
現在はルックによって四人とも真の紋章を奪われてしまっているが、過去の真の炎の紋章や真の水の紋章の暴走は、その紋章の持つ力の爪あとを、世界にまざまざと見せつけた。
確かに、真の紋章を持つ者が身内にいれば、それは強力極まりない戦力である。
だが、だからこそ危ういと、クリスは思うのだ。
今、この城に集まるものは、その意識の高低に差はあれど、同じ目的を有する者たちである。
だが、その【継承者】が彼らの持つ目的に賛同するとは限らぬのだ。
最悪の場合、ルックと同程度か、より強力な敵の出現の可能性すらあるのである。
緊張感に包まれたままの場で、シーザーの脇に控えていた幼ビッキーが口を開いた。
「クリス殿は、群島解放戦争というのをご存知か」
「群島……? いや、寡聞にして知らぬ。それは……?」
「今より百五十年以上も前、ここより遥か南の地方で起こった侵略戦争の総称じゃ。
そして、その戦争を群島側の勝利に導いた若者が、真の紋章を持っていたのだ。
この地方では殆ど知られていない歴史じゃがな」
クリスが、視線で幼ビッキーをなでる。
「知られていないという割には、断言されるのだな。
本当に真の紋章があったのかも解らないのではないか」
その場にいる全員が思った疑問ではあったが、幼ビッキーは意味ありげに目を閉じて微笑んだだけで、言葉を続けた。
「ある書物に寄れば、その力は島を一つ吹き飛ばし、海に浮かぶ艦隊を数分にして焼き払ったそうだ。
事実なら、真の炎の紋章の暴走に決して劣らぬな」
幼ビッキーは、そのままシーザーの脇に下がり、言葉を彼にシーザーに譲った。
シーザーがぽんぽんと両手を叩く。
「それでだ。ビッキーがその本から探しあてたその英雄と同じ名の男が、この近くの山間に引き篭もっているという情報を、ゲド殿が入手したのさ」
ルシアが、訝しげに腕を組んで問う。
「しかし、その戦争は百五十年以上も前のことなのだろう? 例えその情報が真実でも、英雄が生きているはずがない。
同名の他人ではないのか」
「いや、この地方にはまずない綴りの名だ。
それに、ササライ殿が言うには、真の紋章は所有者に永遠の生命を与えるという。
ワイアット・ライトフェローの例もあるし、その戦争が何年前のことであろうと、英雄が生存している可能性は高い」
このシーザーの言葉には、すぐさま訂正が入れられた。
彼の脇に下がった幼ビッキーが、口を挟んだのだ。
「永遠の生命ではない。
真の紋章は不老を与えはしても、不死は与えぬ。
現に、炎の英雄とワイアット・ライトフェローは、現世より退場したではないか」
「……言葉の綾だ」
幼ビッキーに的確な駄目出しをされたシーザーは、眉をひそめて幼ビッキーを見下ろして抗議したが、幼ビッキーのほうはそれを黙殺する。
細かくても重大な言葉の綾は、直ちに訂正してしかるべきだとでも言いたげであった。
確かに彼女の言うことは事実である。
だが、例え話自体は正確ではない。
炎の英雄もワイアット・ライトフェローも、古シンダルの秘技を用いて自らの意思で紋章と決別した後で死去したのであり、紋章が不死を与えないという意味で語るなら、そこまで語らねばならなかったであろう。
ワイアット・ライトフェローの名が出たことで少々慄然としていたクリスは、我に返って更に言葉をかける。
「だが、それがもしも本当に他人であったらどうする。典型的な無駄足となるぞ」
「いや、その心配はない。
その男、紋章とは関係なく、大変な剣の使い手でもあるそうだ。
それだけでも、この城に招く価値はあるだろう」
なるほど、とクリスは頷く。
確かに、現在のヒュッテビュッケにも有能な人材は多いが、戦時の真っ最中には、そういう人種が味方に増えることを忌避すべき理由はない。
戦力になるのであれば、猶更である。
傭兵という職種上、自身が優れた剣士であるゲドが見立てたのならば、まずハズレではあるまい。
それに、ヒューゴは炎の英雄、すなわち「象徴」としての重要な役割があり、この城からみだりに動くのは得策ではないし、ゲドは元々不在である。
相手が真の紋章の継承者であるにすれ、優れた剣士であるにすれ、騎士であるクリスが直接会うのが、対応として正解と思えた。
「解った、私が会おう。場所を教えてくれ、すぐに準備をする」
クリスは、大まかな説明と地図を渡されると、足早にその場を後にした。
彼女の隣に居たまま口を挟めなかったサロメが、慌てて彼女を追いかけた。
(To be continude ...)
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ヒューゴとクリスとゲドを指して「三巨頭」という表現は正しいのだろうか……。
(初:06.01.28)
(改:06.09.02)