群島解放戦争がこう着状態に入った10月。解放軍の巨大旗艦オセアニセスは、沈黙して居るわけではなかった。戦闘がない日でも、解放軍のクルーにはそれぞれ割り当てられた仕事があり、みなそれに励んでいた。
船倉に近い図書室に通うフレデリカは、普段は弓矢の訓練をする傍ら、エレノアの弟子であるターニャとともに、解放軍が各地で収集してきた資料をまとめ直す仕事に従事している。
フレデリカはいまや敵国となったクールーク皇国と赤月帝国の国境地方の出身であり、その地方の伝承や習俗に深い知識がある。そのフレデリカの知識と、各地で集めた本の内容を照らし合わせることで、群島地方の歴史を検証しなおすと言う一大プロジェクトが進んでいる。
これは、オベル国王リノ・エン・クルデスの依頼で始まったもので、歴史家志望のターニャがそれに立候補し、急ピッチで作業が進んでいた。
この日も、大量の書物に埋もれながら、ターニャとフレデリカは時に言葉を交わし、時にペンを走らせている。
そして昼ごろ、いったん作業を中止してティータイムに入ったとき、フレデリカがふと思い出したようにいった。
「そういえば、今はクールーク・赤月国境ではハロウィンの時期だな。群島にもそういう風習はあるのか?」
「ハロウィン?」
やや緑がかった金髪のロングヘアーにコーヒーの香りをまとわせ、ターニャが不思議そうな顔をした。
「初めて聞きます。それはどのような風習ですか?」
多大の興味が含まれたターニャの視線を流しつつ、フレデリカがわずかに微笑む。
「なに、他愛ないイベントだよ。夜になると子供たちが悪魔の格好をして、家々を訪ねまわる。
そしてこう言うのさ。「
そして悪魔の格好をした子供にお菓子を渡すことで、悪魔のいたずらから逃れる。その一年、その家は平穏無事に過ごせる。
いわば悪魔よけのイベントさ」
「なるほど、私の知る限り、群島にはそういったイベントはありませんね」
考えながらペンを動かし、ターニャは何度も頷いている。
このときは、フレデリカは茶飲み話のつもりだったし、ターニャも自分の中に小さな知識が増えるのを喜んで終わるはずだった。
このわずかな会話が、少しのちに大きな事件に発展するとは、二人とも知る立場ではなかったのである。
ターニャとフレデリカの会話がどこでもれたのかは分からないが、二日後、解放軍に、あるいは椿事と呼ぶべき事態が起こっていた。
解放軍の年少組であるリタ、ルネ、ラクジーの三人は、いつ作ったのかお手製の悪魔の衣装に身を包み、サロンにあるルイーズの酒場に現われた。
カボチャではなく、どちらかといえば魚の面影が見えるのは、海に囲まれて育った人種ゆえかもしれない。
「あらあら、これは可愛い悪魔さんね。いったい何事かしら」
普段酔っ払いの相手をすることの多いルイーズは、少々のことではたじろがない。この日も、にこにこと微笑んで、三人の小悪魔を迎えた。
三人の小悪魔は、いっせいに手を伸ばして、元気よく言った。
「
「お菓子? いたずら?」
ルイーズは自体が飲み込めず、きょとんとする。
「あ、あのですね」
慌ててルネが解説を入れた。自分たちにお菓子をくれれば、これからの一年は災いもなく健やかに過ごせるだろう、と。
酒場の女将であるルイーズは、こういった祭りやイベントが大好きである。理解も早い。
「あらあら、悪魔にたたられたら大変ね。ちょうど、ここにガイエン産の珍しい砂糖菓子があるから、これをあげましょう。三人で分けてね」
そう言いつつもったいぶった手つきで、三人にお菓子をあげたのだ。
「やったあ! ありがとうございます!」
ラクジーなどは飛び上がって喜んで、お菓子を懐に入れた。
「じゃあ、次はケヴィンさんとパムさんのところだよ!」
リタも小躍りしながらルイーズに大きく頭を下げ、次のターゲットを定めて走り出した。
「怒られないようにしなさいね」
背中から聴こえてくるルイーズの声に、三人は手を振ってこたえた。
だがこの頃、解放軍のリーダーであるマクスウェルのもとには、ある意味で悪魔以上のものが訪れていた。
船長であるマクスウェルは、この日は昼過ぎには公務を終え、自室に戻っている。戦争がこう着状態とはいえ、導火線に火がついていることには違いない。
どこでいつ戦闘が始まるか分からぬこの時期、部屋で少しでもティータイムがとれる時間は貴重であった。
マクスウェルはターニャから借りた本を広げ、淹れたばかりの紅茶を口に運んだときである。
ドンドンドン!
ずいぶん乱暴に、ドアがノックされた。マクスウェルが思わず紅茶をこぼしそうになって、慌てて立ち上がった。
何事か起こったのか。そう思ってドアに近づくと。
ドンドンドン!
マクスウェルがドアを開けるよりも早く、また乱暴にノックされる。よほど重大な緊急事態か。
そう思ってドアを開けたマクスウェルの前に、彼の予想の斜め上を行く「災厄」が立っていた。
大きな男だ。身長は一八〇センチを超えるだろう。鍛え上げられた筋肉が、ラフな服装からこぼれ見える。
リノ・エン・クルデス。オベル国王にしてマクスウェル最大の理解者にして支援者。
その彼が、ふんぞり返るように大股で、腕を組んで立っていた。
ただひとつ普段と違うのは、顔全体を不可思議なマスクに包んでいることだった。白地のそのマスクには、乱暴な筆跡で「アグネス」と書いている。
この時点で、マクスウェルの脳裏にろくな事態ではないと危機感があったのだが、とにかく、何かが起こったのは間違いないのだろう。
「リノさん、なにがあったの? そのいでたちは一体……」
「否ァッ!!!!」
マクスウェルの質問をさえぎって、リノお巨大な胸郭から巨大な声が発せされた。
「今日の俺はリノではない。アグネスだ。強いて言えば、リノ・エン・アグネスだ!」
(これはまた、なにかへんなことを思いついたな……)
マクスウェルは上半身全体を使ってため息をついた。
「……それで、リノ・エン・アグネスさんは、今日は何事ですか」
「うむ!」
腕を組んだまま大きく頷き、リノ・エン・アグネスは説明した。
「クールーク・赤月国境付近では、今日はハロウィンと言うイベントだそうだ。
すなわち、自分以外の誰かになりすまし、親しい者をたずねてこう言うのだ」
リノ・エン・アグネスは初めて動きを見せた。大きく足を開いて腰を落とし、拳をマクスウェルにむけたのだ。そして激しく、声を上げた。
「
「!?」
マクスウェルは、とっさに理解しかねる事態に困惑した。尊敬する人物が他人になりすまし、いきなりいたずらされるか殴られるかを選べ、というのだ。
理解の速度がおいつかない。
伝言ゲームのどこかで曲がってしまった情報かもしれないが、目前の相手は、優柔不断を許してくれる相手ではない。たとえ、リノではいにしても、である。
それを証明するように、リノ・エン・アグネスは、もう一度構えなおし、拳を突き出したのである。
「
いたずらか、殴打か。決断しなければ相手の信頼を失う。それはすなわち、解放軍のリーダーたる資格を失ってしまうことでもある。
さすが一国の王であった。いついかなるときでも、リーダーの資質を試してくる。そして最高の結果を求めてくる。
自分はなんという人物に認められてしまったのだろうか。この男の信頼は、常に重く、常に貴重だった。
マクスウェルは、理解し、決断した。わずかにためをつくり、息を吐き出すと、リノ・エン・アグネスを視線で貫いて叫んだ。
「
「ほう」
自分では、半々の確率で考えていたのだろう。リノ・エン・アグネスは、いかつい顔にいたずらっぽい笑みをたたえた。
即座に決戦を決意したその意気込みに感心し、結果を考えぬ若さに感嘆したのである。
「よろしい、ここでは狭い。上へ行こう」
「はい」
二人は、甲板に上る。南国で太陽が昇っているとはいえ、季節で言えばすでに冬が近い。薄着になる時期ではないが、二人の血は徐々に温度を上げていた。
考えてみれば、二人が直接拳を交えるのは、これが初めてだ。解放軍のリーダーを決めるときに戦ったことがあるが、これは武器を持っての決闘だったし、リノ・エン・クルデスが怪我のせいでわずかに不利な状態での戦いだった。
しかし、今回は違う。リノ・エン・アグネスは万全の状態であり、それを証明するかのように筋肉の張り方が尋常ではない。普段のトレーニングのたまものであろう。
マクスウェルは身長一七〇センチ、体重は六〇キロにすぎない。対するリノは、身長一八五センチ、体重は九〇キロに達する。本来なら、まともに殴りあう体格差ではない。
だが、その不利を承知の上で、マクスウェルは血戦を決意したのだ。この男の信頼を失わぬために。
甲板に出た。広く地平線が見渡せる。風は殆どない。二人は対峙した。
「
リノの三度目の問いかけ。しかし、これは確認の意味が強い。当然のように、マクスウェルの答えは変わらない。
「
そうこたえるたびに、マクスウェルの体温が上昇していく。血の温度が上がっていく。
(この俺が、興奮している!?)
それは、マクスウェル自身にとっても新鮮な驚きだった。考えてみれば、生まれてこの方、本気で誰かと殴りあった経験など皆無である。
海兵学校時代は、どちらかというと周囲のケンカを仲裁する立場であって、自ら誰かと進んで争ったことはない。
そう、彼は興奮している。生まれて初めての経験に興奮しているのだ。
それをはっきりと理解したとき、彼の表情が愉悦に支配された。ここのところ、解放軍のリーダーとして、常に誰かの代表として動いてきた。個人として身体を動かすのは、実に久しい。
マクスウェルは興奮を制御することはしなかった。もとより、体格ではかなわない。勢いと技術で対応するしかない。
その勢いが体温を上昇させた。マクスウェルはこの寒さの中、上着を脱ぎ捨て、大声を張り上げた。
「
なにごとがはじまるのかと、周囲に観客たちが集まり始めた。だが、二人の猛者の感覚には、すでに相手しかうつっていない。
解放軍のリーダーと、正体明瞭なマスクマンの、肉体ひとつの対決である。観客の中には、ラズリル騎士団の面々や、格闘の専門家であるカール、ゴーの姿みえる。
誰が見ても、この勝負はリノのものであったろう。体重差三〇キロという対格差は、単純すぎるほどの指標になりえる。そのまま勝敗に直結してもおかしくない要素なのだ。
簡単に言えば、大人と子供の殴り合いである。
だがこの場合、二人とも武人であった。単なる殴り合いになるにしても、ただでは済むまい。周囲の人間は、二人の熱さに正比例するように、心胆を寒くした。
観客の一人、ジュエルが緊張からつばを飲み込んだ。
まるで、それが合図だった。
大胆に構えたリノ・エン・アグネスの右拳が、大きくしなってマクスウェルに襲い掛かった。
マクスウェルはすぐに胸の前で腕を交差させてそれをガードする。だが、リノはそんなことはおかまいなしに、右ストレートを振りぬいた。
どずん、という音が響く。
雄弁な一撃とは、こういうのを言うのであろう。ガードの上から単純に殴りつけただけなのに。逆に言えば、マクスウェルはリノの一撃を完全にガードしたはずなのに。
マクスウェルの身体は、一メートルほど後方に飛ばされていた。
たとえば、六〇キロの物体を、単純に殴っただけで一メートルも後方にずらすことが、そのような簡単なことなのだろうか?
だが、リノ・エン・アグネスは実際に、それをやってみせた。こともなげに。
「むう……」
観客の一人、カールが、立派なヒゲを揺らしてもだえた。
「なんとも乱暴な動きに見えるが、あれは殴り方を知っておる者の動きですな。
これは強敵ですぞ、マクスウェル殿……!」
カールの心配は、そのままマクスウェルの恐怖感に直結していた。彼にしても、人力で一メートルも吹き飛ばされるなど、初めての経験である。
ガードは成功したから身体へのダメージはたいしたことはない。だが、精神のダメージで先手をとられた。恐怖心、というダメージである。
「どうした、こないならこちらからいくぞ」
リノは構えなおし、今度は左のストレートを放った。しなやかに伸びる、まっすぐな拳だ。
狙いはマクスウェルの顔面。これはマクスウェルもすぐに察知し、右腕でとっさに防いだ。
ガードした腕が顔面にぶつかるほどの勢いだったが、ガードには成功した。
成功した、はずだった。リノはにやりと笑う。対照的に、マクスウェルの顔が引き攣った。
ガードしたはずなのに、口から一筋の血が流れ出していた。
(これが……左!?)
利き腕ではないほうで、この威力である。一度は上がったマクスウェルの温度が、音を立てて下っていくのが、自分でも分かるほど、彼は驚いた。そして、恐怖した。
左でこれほどの威力があるなら、さきほど自分を吹き飛ばした右が直撃したら、果たしてどうなってしまうのか。
こういう状況で考えがネガティブな方向に向かうと、もう止まらないのが常である。自分が勝利する情景など吹き飛んでしまい、どのように無様に倒されるか、そればかりが頭に浮かぶ。
戦いの最中としては最悪の状況と言っていい。
(どうする? どうすれば、あの暴力から
マクスウェルの思考が敗北者のそれになろうとした、まさにそのときだった。
ギャラリーの中から、彼に馴染んだ声が響いた。
「驚くな、マクスウェル! 体重差を考えればあれくらいは予想のうちだ。まだ慌てる時期じゃない!」
声の主はケネスだった。海兵学校では常にマクスウェルと似たような立場に居た男だ。観察眼に優れている彼の助言は、マクスウェルの頼もしい味方になるだろう。
「力に力で対抗するな! 常に波にまかせて受け流すんだ。学校での教えを思い出せ!」
ケネスの一言が、マクスウェルを敗北の淵から救った。彼の表情から怯えの要素が徐々に引いていく。落ち着きを取り戻したのだ。
(これは良き助言!)
カールが心底で褒め称える。マクスウェルは一度息を吐き出すと、身体を上下に揺すりだした。足を使い出したのだ。
顔面をガードで固め、軽いフットワークで動き出した。
「ほう、何かをつかんだようだな。だが……」
リノが再び左を構える。速い! 構えるのと拳が飛んでくるのが、ほぼ同時であった。
これがリノの本気であった。相手にガードするいとまさえ与えない、一方的な戦闘力。
政治家としての慎重さは、そこにはない。戦士としての彼は一方的に、かつ圧倒的に勝つのが常であり、それでこその彼であった。
渾身の一撃。決まれば、左でも十分に勝負がつく一撃。だが、マクスウェルはこれをかわした。
フットワークを使い、わずかに身体を左に寄せて直撃をさけた。少しガードの上からこすった程度で、十分にかわしきったように、ケネスやカールなどには見えた。
だが。
マクスウェルの身体がふらりと揺れる。
(!?)
観客も、マクスウェルも、リノ以外の全員が驚嘆したあろう。マクスウェルは確かにリノの直撃を避けた。しかし、実際に彼の膝は震えていたのだ。
(かすっただけでこの威力か……)
マクスウェルはリノから距離を置き、冷たい息を吐き出した。興奮と恐怖とが、交互に襲ってくる。まともな精神の状態ではない。
そんなマクスウェルを見ながら、リノ・エン・アグネスはニヤリと笑った。
「俺の拳は、かすっただけで脚を奪うぞ。さあどうするかね?」
なかば挑発ともとれる言葉。だが、マクスウェルは、持ち直した。まだ倒れるようなダメージではない。まだ足は使える。
再びフットワークを使い、身体を揺らし始めた。
(どうするマクスウェル? リーチの差は二〇センチ以上、ヒット・アンド・アウェイでたたえる相手じゃない)
ケネスの心配は当然であり必然だった。リノ相手に破壊力で勝負ならないことは、マクスウェル自身がわかったはず。ならどうすればいい?
答えは出ていない。だが、マクスウェルは動いた。考えてみれば、この戦いで彼はまだ何もしていない。
ただただ圧倒されているだけだ。このまま終わるわけにはいかない。
「!」
リノが、マクスウェルの構えに口もとを引き締めた。マクスウェルは、軽快に身体を揺らしながら、腕を下げたのである。
リノ相手にほぼノーガード。これがどれほど危険な行為か、誰にでも理解できたはずだ。マクスウェル自身も。
「ちょっと……」
ジュエルがつぶやき、隣に立っているポーラの袖をそっとつかんだ。
男たちの戦いに割って入るつもりはない。しかし、親友の無残な姿など見たくもない。
だが、マクスウェルはガードを下げたまま、ついに動いた。
動いた、と思った瞬間、彼の姿はリノの左下にあった。彼のわき腹付近に顔があった。
(速い!)
相手の動きに驚きつつも、彼は左拳を打ち下ろす。決まれば理想的なカウンターとなったであろう。だが、その拳は空を切った。
代わりに、マクスウェルの軽い一撃が、リノのわき腹に打ち込まれていた。
咄嗟にもう一撃を振るうが、すでにマクスウェルの姿は彼のリーチの外にいる。
この戦いの初めてのヒットは、マクスウェルの一撃だった。だが、それもリノにダメージを与えてはいないようで、彼の動きは衰えない。
(本気で打ち抜かなかった。どういうつもりだ?)
考えてもダメージはないのだから、支障はない。リノは戦闘に集中した。
再び豪腕を構え、速い左の一撃がマクスウェルの身体を捕らえようとする。
だが、彼の動きも速かった。その一撃を素早く左に動いてかわすと、再びリノの左わき腹に一撃を加え、距離をとる。
リノにダメージはない。少なくとも、リノの認識はそうだった。
(どういうつもりだ、俺を愚弄するのか)
仕留められる距離にいて、仕留められる立場にいながら、当てるだけの打撃を当てて逃げ廻っているのか。
(いや、落ち着け。相手は
一瞬、ヒートアップしそうになる思考を瞬時にクールダウンさせて、リノは相手を観察する。
相変わらずノーガードで、身体を軽く揺すっている。だが、ガードを下げてから彼の動きが俄然、良くなった。あれでは、自分の左でもまともに捕らえるのは難しい。
(だが、俺にダメージがあるわけではない。今はこのままでいい。もう手加減はしない。一撃で終わりだ!)
「ぬぅあ!」
リノが初めて声を張り上げた。そして、思い切り背をのけぞらせ、リーチのある右を一気にマクスウェルに叩きつける。マクスウェルはそれをフットワークで自分の左に避けた。
だが。
(避けられることは織り込み済みだ!)
リノの目は、正確にマクスウェルの動きを捉えていた。自分の左脇に現われたマクスウェルに、今度こそカウンターの左を繰り出したのだ。
右が伸びきったままだから、さほど威力はないが、カウンターとして決まればそれは補える!
「沈めぃ!」
今度こそ、リノは終わらせるつもりで左を打ち抜いた。だが、それは彼にとって最悪のパンチとなった。
マクスウェルは予想していたのか分からないが、ぐっと身を沈めてそのパンチをかわすと、リノの左わき腹に三度、パンチを打ち込んだ。しかも、今度は全力で打ち抜いた。
カウンターを狙ったリノの渾身の一撃は、逆にクロスカウンターとなって自分のわき腹に刺さったのである。
「ぬう!」
初めて、リノがうなり声をあげた、明らかにダメージに耐えている響きである。
(わき腹にしつこく三連発……! これは効きますぞ……!)
カールの予想通り、リノの表情が苦悶に満ちている。あの最初の状況から、誰が予想したであろう、マクスウェルが有利に試合を進めていた。
考えてみれば、簡単なことではあった。破壊力で勝てぬ以上、相手の動きを止めて確実に仕留めにいくしかない。ではどうすればいいか。
マクスウェルは、リノの肝臓を狙ったのである。肝臓にダメージをゆっくりと蓄積させて、最後に一気に打ち抜いた。しかも、カウンターと言う最高の形で決まった。
これなら、よほどの怪物でない限り、全力で動き続けるのは難しい。
しかし、マクスウェルは戦闘態勢を解かない。相変わらずノーガードではあるが、フットワークを落とす気配はない。
なぜなら、まだリノは立っているからだ。苦悶に満ちてはいるが、まだ倒れてはいない。
リノがそこらの怪物ではないことを、マクスウェルが一番良く知っている。まだ戦いは終わりではない!
マクスウェルは、リノに問うた。
「
リノは瞬時に答える。
「
つまりは、そういうことだった。
リノは膝をつくこともなく、一息吐き出して構えなおす。肝臓に受けたダメージは、数分で回復することはない。酸欠に近い状態が何分か続く。
マクスウェルが勝負を決するなら、今しかない。マクスウェルもリノ・エン・アグネスも、二人ともそう思っただろう。勝負が長引いて、マクスウェルに有利になることなどひとつもない。
今度はマクスウェルが動いた。リノがぐっと身体を固める。ゆらりとマクスウェルの身体が揺れたかと思うと、次の瞬間にはすでにリノの真下にいる。この速さを捉えることは尋常では難しい。尋常では。
マクスウェルの狙いは、四度、左わき腹。正確にダメージを蓄積するほどに、決着ははやくなる。……はずだった。
マクスウェルの左が、リノの左わき腹に突き刺さる。これまでの流れどおりなら、この一撃でリノが膝をついてもなんらおかしくはない。
だが、マクスウェルの思考に、一瞬の違和感、続いて恐怖感が流れた。明らかに、これまでとは違うものを殴った感触がした。
「悪いな」
リノの低い声が、意地悪く聴こえる。
「俺が本気で身体に力をこめりゃ、その程度の拳、効きはしない」
マクスウェルにとっては決定的な隙となった。そして、リノがその隙を逃すはずがなかった。
大きく振りかぶったリノの右の豪腕が、うなりを上げて襲い掛かった。技術も何もない。ただ、
マクスウェルの視界が、一瞬で回転した。次の瞬間、胸部に強烈なダメージが来た。そして最後に、背中に強烈なダメージが来た。
自分に何が起こったのか、まったく理解できなかった。ただ、体中が痙攣するほどのダメージを受けたことだけが、理解できた。
観客は唖然とするしかない。リノの全力の一撃は、六〇キロあるマクスウェルの身体を、ゆうに七メートルは吹き飛ばした。まるで台風に転がされる木っ端のように、マクスウェルの身体は一回転して甲板に叩き付けられたのだ。
逆転、ということばを現実にするなら、いまがまさにそうだろう。最初に攻撃をヒットさせたのはマクスウェルだが、最初にダウンを奪ったのはリノだった。
「これで少し俺が有利、かな」
リノにしても、肝臓へのダメージが回復したわけではない。その状況での全力の一撃である。身体への負担は少なくない。
だというのに、彼の表情には笑みさえ浮かんでいた。
「さあ、次は何をしてくれるんだ?
俺はマゾヒストではないが、これだけ殴られたのは久しぶりだ。たちではないが、俺は今、楽しみで仕方ない。
お前と言う相手が、俺をどうしてくれるのか、楽しみで仕方がない!!
さあ、早く立ち上がれ。
戦いの愉悦。リノほどの男でも、これまで味わったことのない感覚だ。
彼は戦士ではあるが、それ以前に政治家である。戦いが起これば先頭に立って戦うが、日常における彼の戦いは、むしろ机上で行なう書類との戦いのほうが多い。
それは、達成感をもたらすことはあっても、なかなか快感とは程遠い作業だった。
だが今、彼は追いつめられている。自分の三分の二ほどしかない体格の相手に追いつめられていた。これまでにない、新鮮な感覚が、彼を興奮させていた。
そして彼の期待通り、マクスウェルは立ち上がった。こちらも、満身創痍という言葉を擬人化したかのようなダメージだ。立ち上がれたが不思議なくらいの状況が、誰の目にも明らかだった。
「もういいよ、ケネス、止めようよ! あれ以上やったらマクスウェルが死んじゃう!」
涙声に近い声で、ジュエルがケネスをゆさぶった。
ケネスも表情は曇っている。だが、彼の一存で止めていいかどうか、判断が下せない。
立ち上がったということは、まだマクスウェルには戦意があるということだ。
(どうだ、まだ戦えるか? まだ足は使えるか? まだその目は相手を見ているか?)
あれだけ激しく叩き付けられたのだ、脳がシェイクされて意識と視界が混濁している可能性もある。
マクスウェルはやや前かがみに、ゆっくりと動く。相変わらずのノーガード。両腕はだらりと下げたままだ。
それが全力での動きなのか、作戦なのか、彼以外の誰にもわからない。リノにも、である。
「よくぞ立った、マクスウェル。つくづく、俺の期待を裏切らない男よ」
半ば尊敬を、半ば抑えきれない闘志を口からこぼしながら、リノも動く。こちらも、動きは緩慢だ。だが、まだ力感は残っている。
緊張の数瞬だった。ゆっくりと、二人が近づく。一歩、また一歩。それごとに、観客の熱気が冷気へと変わっていく。一撃で勝負がつく、恐るべき距離に、二人が立った。
相対する二人の距離は約七〇センチ。小細工が通用する距離ではない。
リノはマクスウェルを見下ろしている。だが、マクスウェルはリノを見ていない。あろうことか、真下を見ている。
「マクスウェル!」
ジュエルをはじめとする複数の声が、悲鳴のように響く。だからと言って状況は変わらない。
「わずか数分のこの勝負、実に有意義だった。だが、勝ちは俺のもののようだ」
リノの右腕が上がる。拳をしっかりと固め、打ち下ろす場所を確認するように、ゆっくりとあがる。
勝負の愉悦。純粋に殺しでしかない戦争、戦闘では味わえない愉悦たっだ。リノは孤独だ。オベル国王という立場に、誰もが遠慮する。誰もが敬意を表して、誰もが一歩引き下がる。
それをしない世界でただ一人の男が、このマクスウェルという男だった。いたずらか拳か。マクスウェルならば、必ず拳を選ぶと思っていた。確信に近い予想だった。
そして彼の期待通り、マクスウェルは彼と殴り合ってくれた。力感に乏しいのは、ウェイト差があるから仕方がない。ただ、自分を本気で殴りにくる人間の存在が嬉しかったのだ。
その感謝を。
「その感謝を、この勝利でお前に捧げよう!」
ついに巨岩が動いた。岩のような拳が、下を向いたままのマクスウェルの頭上に振り下ろされる。
複数の悲鳴、怒号、歓声がリノの聴覚を通り過ぎる。お前もこの声を聞いているか、マクスウェル?
そして―――。
リノ・エン・アグネスのそこで意識は途絶えた。
何が起こったのか、ギャラリーも理解しかねた。確かに、勝利に近いのはリノのほうだったはずだ。
その巨大な拳を、勝利の確信とともにマクスウェルに振り下ろそうとした。
だが、その拳は、マクスウェルには当たらなかった。一歩も動かないマクスウェルの頭の側の空気を殴りながら、いきなりリノがマクスウェルの足元に倒れこんだのである。
一瞬にして意識を失った。そうとしか見えない倒れ方だった。マクスウェルは少しも動きを見せず、下を向いたまま意識があるかどうかも定かではない。
「……何が起こったんだ?」
声を震わせ、汗を拭きながら、ケネスがひとりごちる。それは、全員の疑問だったろう。
カールが顎に指をあて、考えるように状況を分析する。
「私の気のせいですかな。なぐりかかろうとした瞬間、リノ様の動きがほんの一瞬だが止まったように見えた。そして、その首が猛烈な勢いで左に振れたのです。
断言してもよろしい。あれは典型的なカウンターの動きです。マクスウェル殿が、何らかのカウンターを放ったのだ」
「で、でも、マクスウェルはぜんぜん動いたようには思えなかったよ」
ジュエルの疑問に、全員の目がマクスウェルに向く。リノが襲い掛かった瞬間も、リノが倒れた瞬間も、マクスウェルはただ立っていただけのように思える。
「答えは、紋章だね」
カールの隣で答えたのは、銀色の髪を持つ紋章師・マキシンだ。彼女には、マクスウェルの動きが見えたというのだろうか?
「時間にすりゃ、一秒にも満たなかったと思うが、マクスウェルが殴りかかられる瞬間、その左手が赤く光った。つまり、罰の紋章を動かしたということだ。
おそらく、リノの身体がそれに反応して自然に止まったんだろう」
なるほど、とケネスは思う。罰の紋章の恐怖と破壊力を最も知っているのはリノのはずだ。頭が反応する前に、身体が自然にストップしたに違いない。
「だが、それではまだ回答になっていない。リノ陛下の動きが止まっただけでは、意識は奪えない」
ケネスが問うと、マキシンが長身のカールを見上げた。
「今日、マクスウェルが右手に宿しているのは風の紋章だね。
さて、質問だ格闘屋。眼の前の相手が止まった。右手には風の紋章。さあ、あんたならどうする?」
カールは目を細めて、右の拳を左の平手で受けて見せた。彼の回答を、マキシンとギャラリー一同が待っている。
「風の効力を腕に纏わせて、素早い一撃で顎を一発。直撃しなくても、かすればいい。
カウンターになるから、十分、脳が揺れる。意識は持っていけますな」
リノの心理をついた目に見えないカウンター。これがマクスウェルの種だった。
カールの解説が終わるのを待っていたように、マクスウェルがゆっくりと上を見上げる。意識はあるようだが、戦闘力は残ってはいないだろう。
自分で勝ちを理解したのか、心配そうに自分を見ているジュエルやケネスに向けて笑顔を見せた。その彼らが、何かを必死に自分に伝えようとしているのに気づいたのは、一秒ほどたってからだ。
そしてその一秒が、マクスウェルの失敗となった。
下。自分の下から強烈な圧力を感じた。それが何事かを理解する時間さえ与えられずに、マクスウェルは自分の顎に強烈な痛みを感じた。何かが突き抜けたような痛み。
そして、自分の身体から体重が失われたかのような浮遊感に包まれながら、彼の意識は断ち切られた。
その場に立っていたのは、リノ・エン・アグネス。彼は二瞬ほど意識を飛ばされたが、猛然と立ち上がった。そして、立ちながらの全体重を乗せたアッパーカットで、立ち尽くすマクスウェルの顎を捉えたのだった。
まるでさきほどの一撃の再現となった。マクスウェルは四〜五メートルも吹き飛ばされただろうか。しかも、顎への一撃だ。意識を断ち切れないはずはない。
リノは、冷や汗と熱のこもった息を大きく吐き出し、ついに片ひざをついた。彼にも重大なダメージが残っているが、まだ寝るわけにはいかない。
「罰の紋章で俺をビビらせてからのカウンターの一撃。最高の手だよ、マクスウェル、相手が俺じゃなかったらな」
そして、再び立ち上がる。その雄大な背中は、寒風を受けてなおひるまない。マクスウェルの一撃を受けてなお力感を失わない。
「俺はな、罰の紋章にだけは負けられないんだ。それを出さなきゃ、お前が勝ってたろう。それほどのカウンターだった。
だが、出されちまった以上、俺はどうしても勝たなきゃならなかったんだ。悪く思うな」
吹き飛ばされたマクスウェルにユウ医師が近づき、その意識がないこと、戦闘の続行が不可能なことを確認した。
こうしてリノとマクスウェルのハロウィンは、試合時間十五分二十秒、リノのKO勝利となった。
幸い、マクスウェルの命に別状はなく、怪我も打ち身程度だった。しばらくして意識を取り戻し、ユウ医師の診断を受けた。
「よくもまあ、あれで打ち身で済んだものだ」
と、ユウ医師は呆れたように言ったが、しばらくは安静と診断し、二日ほど医務室のベッドに半ば監禁される羽目になってしまった。
あちこちを包帯でぐるぐる巻きにされながらも、マクスウェルは何か満足したように微笑んでいる。相手となったリノも無傷ではすまず、腹に包帯を巻き、顎に湿布を張っていた。
敗れはしたが、あの偉丈夫に手傷を負わせることくらいはできたようだ。これは、少しくらい誇っていいことだろうと思う。
政治的な意味で言えば、一船員がオベル国王を殴り倒したのだから死刑でも済むまいが、これはハロウィンという特別なイベントだ。リノ自身がそう言っているのだからそうなのだろう。
リノがそうであったように、マクスウェルにとっても、いい気分転換ではあった。多少の痛みはともなったが……。
そのとき、お見舞いに来てくれたのだろうか、リタ、ルネ、ラクジーの三人が、可愛い悪魔のような衣装でマクスウェルのもとを訪れた。手に持ったかごには、随分多くの飴やお菓子が入っている。
「やあ、三人ともどうしたんだい、いっぱいお菓子を持っているね」
微笑みかけながらそういったマクスウェルに、リタが、周囲の空気が明るくなるほどの笑顔で言った。
「マクスウェルさん、
「…………………………」
マクスウェルの思考が止まる。
「…………………………なんだって?」
(Fin)
ハロウィンってこういうものじゃなかったような気がする。
(初:14.11.11)