デミトリ・マキシモフ。
自らを闇の王に擬し、主物質界と魔界とを統べるべく闘い続けてきた彼の巨躯は、ここのところの退屈に飽ききっているように、彼の執事には映る。
ヴァンパイア。デミトリの名を知らぬ人間共は、彼らの
その種族のなかで特定するにおいても、彼は間違いなく最強に位置する男であろう。
だが、その圧倒的な能力も、それに相応しい高邁な自信も、ここ暫くは時の空隙に潜む「退屈」の二字に圧し掛かられて、これを振りほどくのに苦労しているようであった。
だが、今宵は違った。
彼の主は、満足そうに夜の月を見上げていた。
満月。月光が真円を描く、彼らヴァンパイアにとって至福の時。
激しく脈動を始めた血の滾りを抑えることなく、むしろそれを楽しむかのように、デミトリは執事にその目をむけた。
「出かけてくるぞ。暫くは戻るまい」
そうして、彼の主は闇に溶け込み、姿を消した。
彼の城ゼルツェライヒは、時にその身を委ね、活動を停止してしまったように見える。
どこまで来たろうか。
特に目的地があるわけではない。満月の光の下、静かな風の流れにまかせてマントをなびかせている。
デミトリ自身は、全身に密着するほどギリギリのサイズの、礼服めいた衣服を着用しているが、これは本来、彼の一部であり、彼が真実の姿を現すとき、それらは全て闇の王たるべきヴァンパイアの肉の一部に戻るのである。
いた。
デミトリの同胞を求める餓えた闘争心は、最高の結果を、彼に齎してくれそうであった。
静かに波打つ湖のほとり。
存在自体が自然に溶け込んでしまいそうなほど泰然とある岩の上に腰を下ろしている少女。
実に奇妙な感覚であった。少女から感じられる“力”が、である。
ここ数年、何度と無く闘うも決着の得られぬ、あの小憎らしい小娘。アーンスランドの継承者と同じ匂いがするのだ。
完全に、というわけではない。混じっている、と言うべきであろうが。
デミトリが暫く少女を見下ろしていると、少女のほうも彼に気付いてたのであろう、すっくと立ち上がり、彼を見上げた。
触覚のような翼を側頭部から生やし、グリーンのショートカットから覗く瞳は、人間で言うならば十代の半ばあたりのあどけなさを思わせる。
しかし、背中から翼を生やす者が人間であるはずもなく、人間の判断基準で外見と年齢が正比例する可能性はゼロに近いであろうが。
肩と背中、そして胸元を大胆に露出させた衣装ではあるが、似たような服のアーンスランドの娘とは、胸の膨らみがだいぶ違う。その膨らみのなさが、少女の童顔をいっそう際立たせているようであった。
少女は、視線を彼と合わせて口を開き、言葉を紡ぐ。
「私は私じゃない。わかるの。
私は私を知ってる。私じゃない、他の私も知ってる気がする。
あなたは誰? 私は、あなたを知らない」
思わず魅了されそうになる。ヴァンパイアである彼さえも。あの童顔の、どこにそんな力があるというのか。
「私は、もう一人の君を知る者だ、少女よ」
「本当?」
少女の顔に微笑が浮かぶ。彼は期待されているようだった。まず間違いなく。
「だが、君がもう一人の君を知ることが出来なかった時、君自身を知っている君さえも失うことになるが……、よろしいかな?」
デミトリが言うと、少女は首をかしげた。
デミトリはことさらに難しい表現を使ったわけではなく、これは彼独特の言い回しであるのだが、生来の彼の気取った性格と合わせて、彼の評価に直結しやすい言動であるには違いない。
少女は腕を顎に当てたまま、背中の翼を巨大な手に変化させて、それをぽんと打った。
「わかったよ、力づくで来いってことだね?」
デミトリは、地に降り立った。わずかに空気が震え、周囲の空間を別世界に誘おうとするが、それも一瞬のことだった。
二人の吐息は、その空気をすら凍らせた。
「その通りだ。聡明な女性は私の好みだよ、お嬢さん」
少女は右手を腰に当てて、左手でデミトリを指した。
「リリスだよ。LILITH」
「私はデミトリ・マキシモフ。では始めようか、美しき欲望の迷い子よ!」
まるでそれが合図となったように二人は間合いを離す。
二人とも遠距離攻撃が可能であり、かついざとなれば飛翔することも可能であるから、間合いという概念はこの場合、あって無きが如しではあるが。
「ソウルフラッシュ!」
先手を取ったのはリリスだった。彼女の腕から発せられた光の気弾を、デミトリは相殺をせずかわして様子見に入ろうとした。
だが、リリスはそれを許さない。自らの放った弾を追いかけるように一足飛びで間合いを詰めると、再び左翼を巨大な腕へと変化させてデミトリを捕える、同じく巨大な弓状に変化させた右翼へとつがえ、文字通りデミトリの身体を矢として発射した。
「飛んでけぇ、ばいばい!」
デミトリは、飛ばされた自分の目標物が大木の根であることを確信すると、あえて避けることはせず、そればかりか自分の身体の回転の速度を自分で速めた。
「デモン・クレイドル!」
自分がぶつけられるはずだった大木を自分の回転によって粉砕し、そのまま空中で停止しリリスに向き直ると、今度は彼から仕掛ける。
「Get my Lage!」
勢い良く突き出されたデミトリの両腕から、蝙蝠を象った巨大な炎の塊が撃ち放たれた。だが、リリスは驚いた風でもなく、自らも両腕に力を溜め込むと、躊躇なくそれを発した。
「とぉくだい!ソウルフラッシュ!」
二つの巨大なエネルギーがぶつかり合い、凝縮の末に爆発を起こした。拡散したエネルギーは、光と音を伴って周囲の木々を跡形もなく焼き払い、薙倒した。
もうもうと立ち上る煙は、二人の闇の格闘家を殺気の世界から分け隔てる。緊迫した体内での沈黙は、一瞬を永遠に見せる。
リリスは、自分の中で広がろうとする心の空隙を最小に押さえようとする。リリスは自分の心の半分を支配する空っぽの空間が、自分の物でないことを知っていた。
本来、彼女となるべき魂から分かたれてより三百余年、魔界の救済を画策する冥王ジェダ・ドーマにより仮初の肉体を与えられるまで、魔界と人間界の中間の存在に浮遊していたのだ。
一つになりたい。自分に戻りたい。
モリガン・アーンスランド。失われた彼女の半身。
名は知らないが、引き付けあう力同士が、リリスに彼女の存在を強烈に意識させる。
一つに戻ると、どうなるのか? 今は考えていない。考えたくない。
どちらか片方が消えるのか、両方の存在が消えて新たな人格が生まれるのか。
「主観が映画をつくる」とは人間の映画監督の言葉であり、彼女はその言葉を知らないが、今でも、そして一つになって後も、リリスにはあらゆる意味で客観は必要ないように思われる。
他人に支配されない世界を支配するのは、自分だけでよい。「世界」の概念に差があろうと、考え方に差はない。リリスがジェダ・ドーマの救済の邪魔をしない、唯一の理由である。
無論、仮初とはいえ自分に肉体を与えてくれた恩もあるにはある。しかし、ジェダの趣味なのか、この所謂「幼児体型」だけはリリスの本意ではない。
ジェダ曰く、バストは74cmだが、実際に計測してみるともう少し小さいのではないか。その不満を思うと、彼への恩は、プラスマイナス・ゼロがいいところであろう。
そこまで考えつつ、リリスは晴れつつある煙のほうを見る。が、リリスの一瞬の思慮の隙を突き、デミトリはダッシュによる猛スピードで間合いを詰め、素早くパンチを繰り出してきた。
翼を身体に巻きつけてガードするリリスに、デミトリは反撃の機会を与えるつもりがないかのごとく、攻めて攻め続ける。
もちろん、リリスとて黙ってやられているわけではない。デミトリが片腕を地面に付き、足払いを繰り出そうかという、こちらも一瞬の隙を狙い、翼を巨大な刃物に変化させて、下からかデミトリを斬り上げたのである。この反撃は成功したかに見えた。だが、これこそがデミトリが仕掛けた罠であったのだ。
デミトリは放つはずだった足払いを引くと、翼による攻撃を空振りし、一人で上空に飛び上がってしまったリリスに対して、人間界での姿を脱ぎ捨て、凶悪な魔界での姿−ヴァンパイアとしての本性−を曝け出した。リリスは自分の犯したミスを理解していたが、どうしようもない。
「地獄を味わえ!」
デミトリの身体が一瞬、暗黒に染まる。そして、まるでそれが虚無への扉であるかのごとく、無数の蝙蝠が発射され、それは凶悪な凶器と化してリリスの身体に噛み付き、切り裂き、そして引き裂いた。
「くっ、きゃああっ!」
どうという音がして少女の身体が大地に叩きつけられる。
デミトリが自らの姿を戻したそこには、血塗れの少女が震えながら、なんとか立ち上がろうとしていた。
デミトリは、勝利を得る決定的な機会となり得るこの場面であえて追撃を避けた。この少女を殺スことなく自分の足元に跪かせ、ヴァンパイアの契約の元に寵姫とする。それは下種な欲望ではなく、ヴァンパイアとして彼が持つ、当然の欲求である。
「どうした、リリス。君の半身は、その程度のことでは朽ちぬぞ。君の力も、こんなものではあるまい!」
リリスは立ち上がる。多少、呼吸が乱れてはいるが、激しく消耗しているわけではなさそうだ。
そう、それでこそ、モリガン・アーンスランドの片割れであるに相応しい。
リリスは、息を切らしながらも、自分の血で塗れた指先を舐めると、ある種、淫猥な笑顔を、そのあどけない顔に浮かべた。
「ふふ……、これが血……、これが、命なのね」
私は、この男の言う半身を知らない。向こうも、恐らく私を知らない。
でも、向こうは気づかないうちに私を呼んでいる。魂の下で、手を差し伸べている。私には解る。
私はそれに応える。応えなければならない。同一固体として、六来在るべき姿に戻るために。それまでは……。
「負けられない……よね」
リリスは自らの血を、自分の両目の下に、化粧でもするように一筋塗りつけた。
血の涙を流すLILITH。口元に浮かべられた、空ろとも写る微笑み。
『なんとも美しい』
それらは、デミトリの収集欲を益々刺激した。
血塗れのマリアは動き出す。デミトリも驚愕するほどの素早いダッシュ。
デミトリは上半身への攻撃を予測し、マントを使ってガードを固める。ダッシュで後方に退くことも考えたが、相手の動きが彼の判断速度を凌駕していた。
最初の一撃は、彼の予測を覆し、足元へなされた。滑るような軽いつま先蹴りだったが、下半身を開けていたデミトリに軽いダメージ以上の衝撃を与えた。
無論、それ一撃で終わるほど、リリスは優しくはありえない。続けざまに翼を腕に巻きつけドリル状に変化させると、デミトリのガードの崩れた上半身に突き刺し、抉る。
デミトリの表情が、あらざる痛覚に歪む。勢いよく吹き出した流血がリリスを襲い、血塗れのマリアは全身を真紅に染めながら微笑を零す。そして腕をデミトリの肉体から抜くと、後背を向きつつ相手の顎を蹴り上げ、更に背中の翼を複数の槍へと変化させて、デミトリの全身を貫いた。
「ぬうぁ!」
遂にデミトリの口から嗚咽が漏れる。
彼は、自分がリリスの力を読み違えていたことを、自分の中で素直に認めた。戦闘力だけではない。彼女自身から発せられるプレッシャーである。あるいは、彼女の一片であるモリガン・アーンスランドをも凌ぐやも知れぬ。
彼は、心中で自嘲した。自分が流血をしているのは解っている。しかし、ことここに至っても、リリスを自分のコレクションに加えることを諦めてはいない。それどころか、自分が彼女に敗れるなどと、思ってもいない。彼の自嘲は、あくまで彼女の力を見誤った自分の判断力向けられたものだった。
リリスの攻撃はやむことを知らない。不意にデミトリの背後に彼女の分身が出現したかと思うと、凄まじい速さで本体との同時連続攻撃を開始したのだ。それはまるで、復讐の悪意にとり憑かれた 狂った楽神の演奏さながらであった。切れ目というものがなかった。
「どうした、どうした!」
最後は回転する刃に変化した翼で持ち上げたデミトリを、同じく刃と化した足刀で、二人のリリスは同時に斬り落とした。
「ぜぇんぜん、ダメね!」
どこまでも幼く、残酷に跳ねる声。
二人の声が重なると、リリスは分身と重なり合い、再び同化した。
彼女は勝利の確信などしていない。しかし、相手に自分以上のダメージを負わせたことは確信していた。
彼女の繰り出した分身との連続攻撃「ルミナス・イリュージョン」は、彼女が生まれたときから、その魂に内包されたものだ。恐らくは、彼女の片方も持っているだろうと思い、それは真実であった。
リリスは戦いの中に美などを求めていなかった。戦いとは、自己を再発見する手段に他ならない。
その点、戦いの中に図らずも美を求めてしまうデミトリとは真逆であると言える。デミトリにとっては、戦いとは勝利を前提とした行動でしかない。勝利は「結果」ですらなかった。空気と同等、そこにあるのが当然の概念なのだ。
そもそも、生物にはすべからく闘争心がある。
ただ、それは高度な知能を持てば持つほど、逆に低俗化してしまう傾向があるようである。
地球上に溢れる人間どもの闘争心の、なんと低俗なことよ。彼らが獣と呼ぶ動物達の争いの方が遥かに高貴である。
なぜか? それは、彼らの闘争の原因が、著しく純粋、著しく単純であるからだ。人間のように、いちいち自分を正当化する理由など付けはしない。それこそが本来あるべき闘争の姿である。
愚かなる人間は、命のやりとりを道具にする。それをもって歴史のページに刻み込まれた血の跡は、いくら美辞麗句を用いようと、永遠に洗い流すことなど出来ぬというのに。
デミトリは立ち上がる。リリスが思わず驚いたことに、彼の衣服・肉体には、傷の一つもついていなかった。
「おや、驚いたかね? なに、これは元来、私の一部なのだよ。修復しようと思えば、いつでも出きるのだ」
デミトリの言葉は、余裕に満ちている。リリスは正直、平静を装うのに苦労した。手応えはあった。確実な手応えだったはずなのに。
リリスの作った空隙を、デミトリは見逃しはしなかった。いきなりリリスの頭上へと転移すると、全身にマントを巻きつけドリル状に変化させて、急角度でリリスへと突進する。
ガードは咄嗟に間に合ったものの、防御の上から体力も皮膚も削り取られていく異様な感覚に、リリスは吐き気を覚える。
リリスは待っていた。最後の機会を。デミトリが今の攻撃態勢を解き、間合いを取ろうとした一瞬の隙。
何かが叫んだ。
―――マタ、モドッテシマウノ―――
何かが叫んだ。
―――モウ、クライトコロハ、イヤ―――
何かが叫んだ。
―――モウ、ヒトリハ、イヤ―――
何かが叫んだ。
―――タニンノシッテイル、ジブンノコドクハイヤ―――
何かが叫んだ。
―――ジブンノシラナイタニンノコウフクハ―――
何かが叫んだ。
「いやああああああああ!」
「テンプテーション!!」
リリスは自分の衣装を蝙蝠へと変化させると、自分の裸身の周囲を猛烈な速度で回転させながら、デミトリを巻き込むつもりで上昇した。それはさしずめ、小型のハリケーンであった。
だが、手応えはなかった。
着地したリリスは、衣服を戻すのを忘れ、周囲を見渡す。デミトリの姿がない。
この時、リリス自身が、先ほどデミトリが自分に見せたものを、今デミトリに見せていることに気付いていない。
リリスが気付いたとき、背後から冷たい牙と、生暖かい男の吐息の感触が、首筋を通して心底まで達した。
何かが問うた。
―――マタ、モドルノ?―――
何かが問うた。
―――アノヤミノナカヘ―――
何かが問うた。
―――マタ、モドルノ?―――
何かが問うた。
四回、五回。リリスの首に、デミトリの牙が突き立てられ、最後に複数の打撃が、彼女の小さな肉体を弾き飛ばした。
「ふむ、やはりヤツの半身なだけはある。特別に美味だな。ヤツの血も、このように美味か」
デミトリは誰に問うたわけでもない。もちろん、リリスに回答など求めていない。
あくまで、自分の優越感を自らに再認識させるためだけの、それは言葉だった。
何かが問うた。
リリスが、その問いに自分で答えを出すことは、二度とない。彼女は、デミトリの牙による「吸血の洗礼」を受けてしまった。
ヴァンパイアの洗礼というものが、何を意味するか―――。
自分の意思によらず生まれ、他人の意思で肉体を与えられた少女は、他人の手によって自分の意思を奪われた。
意識はまだ、戻っていない。
デミトリは満足そうな笑顔を浮かべた。彼にしてみれば、上々の成果である。
この上なく美しく、この上なく強い。更には、この上なく高貴な下僕を手に入れたのだ。これが満足せずにいられようか。
彼はリリスの小柄な肉体を抱え上げると、その巨躯を空中に浮かべ…………闇に溶けるように消え去った。
儚い月光の下で行われる、儚い命のやりとり。これはその、ほんの一幕に過ぎない。
(fin)
ども、今更「ヴァンパイア・セイヴァー」です。誰も求めてないっちゅうに。
ま、「ヴァンパイア・クロニクル」も発売されたし、大目に見てね(笑)。
実はこれ、大昔に同人誌で出した原稿を引っ張り出して加筆・修正したものです。もう殆ど原型がありませんが。
(初稿:05.10.26)