エレベーター

 深夜。
 そう、深夜といっていい時間帯だった。
 ある、大都市。
 夜深くなお、音と光は止む気配を見せないでいる。
 その中心地に、一際目立つ、超高層ビルがあった。
 比較的新しい雰囲気を汚さぬ白亜の外観を見て、朝も夜も関係なく、都市の人々はそのビルを見上げ。
 そして、思うのだ。

 一軒のオフィスも小売店も入っていない、しかし人の出入りの激しいこのビルは、いったいどんな人種の人々が使っているのか、と。


 真上から見るとちょうど正方形をしているそのビルは、外に半分張り出す形で、八基のエレベーターを設置している。
 それはいずれも、一日の時間に関係なく、素晴らしい景色を最高の視点で俯瞰できるように設置され、また非常に高速でありながら音も揺れも殆ど無い、最高の仕上がりであった。

『なるほど、技術の進歩というものは素晴らしい』

 普段は、そのような世俗的な思考と全く無縁のその男も、視界の捉える景色に身を浸していると、時として思考の指向にずれが出るようであった。

 深夜。
 そう、深夜といっていい時間帯だ。
 止むことの無い音と光を眼下に上昇するエレベーターには、二人の男が乗り込んでいた。
 二人とも高級そうなスーツに身を包んではいるが、その下にある肉体とかもし出す雰囲気は、明らかに一般のサラリーマンなどとは隔絶していた。

 一人は、名をギルという。
 恐らくは2メートルを超えるであろう巨躯と、鍛え上げられた肉体の持ち主だが、それに比してやや細めに思える顔だちと、腰まで伸ばされた金髪、何よりも常に思慮深い光を湛えた瞳が、その前に立つ人々に何とも言えぬ神秘的な印象を与える男である。
 そして、そのギルの背中を見、やや控えるように立つ男の名を、ユリアンといった。
 ギルと同じく天を突く巨躯の持ち主であり、肉体の縦幅も横幅もさして変わらぬはずなのだが、ギルのそれがどこか石英を思わせる繊細さを持つのに比べ、ユリアンは肉体も表情も、まるで玄武岩のような剛毅さに満ち充ちていた。
 銀色の髪を短く刈り込み、常に厳しさと力と自信に満ち溢れた蒼い視線は、それだけであらゆる生命を眼下に睥睨させるに充分であった。

 ギルはエレベーターの窓際に立ち、眼下に流れ行く風景を無言で眺め、ユリアンはそんなギルの広い背中と、外の風景と、窓ガラスに映るギルの顔とを、等分に眺めているように見える。
 ギルが、言葉無く、右手で口元を覆った。
 それは、深く自らの思考の湖に沈んでいる時の彼の癖であり、彼がこの仕草を見せるとき、ユリアンはなるべく彼の世界には立ち入らないようにしていた。

 ギルもユリアンも、自らの出自を知らない。
 二人は幼い頃より、ある組織の監視下のもと、幼馴染み、というよりも兄弟同然に育てられ、鍛え上げられた。
 それはその組織−といっても、秘密結社的な側面の強い組織であったが−の、将来の総帥、引いては、この人類世界の頂点に立つ存在となるための、厳しいという言葉で括るには余りに厳しい、生命をすら賭けた毎日だった。
 その中を、二人は時に競い合い、時に助け合いながら、なんとか生き残ってきたのである。
 他になんの価値観もない極狭の世界の中、ただ頂点を極めるべく心身を削ることだけが、二人の生きる価値観であったのだ。


 結果、二十数年たった現在、ギルは圧倒的な存在感と抜きん出た能力で組織の頂点を極め、ユリアンはギルに劣らぬ力を見せて、彼を補佐する立場に立った。
 二人の位置の差に繋がったのは、何事にも万事慎重なギル、総てにおいて大胆なユリアン、その性格の差だけだと思われた。

「他の者よりも優れたる者は、真幻ともに、その者たちを見下ろす位置に常に立ち慣れねばならない」

 そんな愚かな理由だけで建築された、この白亜のビル−馬鹿々々しいほどの虚飾の塊−の最上階、彼ら二人以外の者たちを一切受け付けぬ、至高の位置に立つ権利を、彼らは自らの手で掴み取ったのである。

 しかし、現在自らが立つ地位と現実に、ギルは昨今、疑問を持ち始めている。
 彼は、これまでの自分の、長くも無い人生を悔いてはいなかった。それどころか、信念などという思考停止によらず、実力と前進で築いた自らの心身には、並々ならぬ自負がある。
 しかし、年齢に比して視界が広くなる都度、彼は自分の周辺の環境と、他の人間の環境との違いに、小さからざる差異を感じ始めてもいた。
 それは日々、薄い陽炎のようにもやとして精神に陰り、かき混ぜたコーヒーに注いだミルクのように、ギルの脳裏に単色ならざる価値観の波紋を投げかけていた。
 ユリアンは、そんなギルの心境をすべて理解することはできなかったが、常に超然たるべきギルの悩む姿は、ユリアンにとってもあまり心地の良い姿ではなかった。

「兄者よ」

 背後から突然かけられた声に、ギルはふと意識を現実へと立ち戻らせた。
 無論、その声の所有者はユリアンであり、彼はギルのことを子供のころからそう呼んでいた。それは既に習慣であり、初めて知り合ってから三十年が経過した現在でも変わることは無かった。

「あなたでも悩むことがあるのだな、兄者よ」

 微妙に驚きを含んだユリアンの言葉に、ギルは困ったような表情で、逞しすぎる弟分に振り返った。

「やはり、お前には隠し通せぬか、ユリアン」

「当然だ。何年こうして顔を突き合わせていると思っている?」

 逞しい補佐役の、頼もしい言葉に、ギルは一瞬笑顔を浮かべた。
 そして次の一瞬で表情を消し、エレベーターのガラスに背中をつけて体重を預けた。
 そのまま顔を横に、更に視線を背後の風景へと向ける。

「悩んでいる、というよりも、これは『不安』だな。そう、私は不安なのだよ、ユリアン」

「不安?」

 今度は声だけでなく、ユリアンははっきりと表情に出して驚いた。

「冗談にしては、あまり笑えぬ。よりにもよって兄者、あなたの口から不安などと」

「冗談に聞こえたかね?」

「冗談にしては、出来が良いとは言えぬな。真実ならば、いっそう信じられぬ」

 ため息に似た言葉を吐くユリアンの表情から、驚きやら落胆やら、様々な感情を、ギルは感じ取る。
 ユリアンからしてみれば、常に彼の前を歩むギルは『迷うべき者』ではありえなかった。そして、これまで『迷うべき者』であったことはなかった。
 慎重ではあるものの決断力に富み、しかも一度として選択を誤ったことはなく、常に彼自身と彼に従うものを正しく導いてきたかのように思える。
 そのギルが何かに対して不安を感じていることに、ユリアンは大きな驚きと、ほんのわずかな困惑を感じざるを得なかった。

 無論、それは羨望や願望の成分が多分に入り混じったユリアンの誤解であって、ギルも不安や困惑などの人並みの感情は持っている。ただそれを、態度に出さない術に長けている、というだけであった。
 ギル自身は、自分は「主観的正義」という名の相棒と無邪気に踊りまわれるほど自信家ではない、と、自分のことを評して言っている。

「いや、残念ながら冗談ではないのだよ、ユリアン。私は不安なのだ。私とお前と、そして母なるこの組織の行く末に」

 彼にしては珍しく、ギルは肩をすくめ、苦笑した。

「なにがあなたを不安にさせるのだ、兄者よ。あなたも私も、長年の努力の末、組織の頂点を勝ち取ったばかりではないか」

 一気に言った後、ユリアンは自らを落ち着かせるように呼吸をひとつ吐き出し、言葉を整えた。

「人間としての限界を極めたあなたと私、そして、あなたの存在によって生まれ変わるであろう組織。この三者に、私は聊かも不安を感じることは無い。不安があるというならば、なにがあなたをそうさせるのだ、兄者よ」

 あなたにとって、不安を持たせてしまうほど私は頼りない存在なのか。言外にそう言い含めて、ユリアンは言葉を切り、ギルの発言を待つ。
 ギルは静かに首を横に振った。普段は見る者を惹きつけて止まぬその双眸は、すっかり色を消してしまっていた。

 およそ2000年の昔、当時の人間の知覚の届く範囲の世界で勢力を振るったある世界宗教。ギルとユリアンの治める組織は、その残滓といってよいものだった。
 すでに一般の世界でその宗教の神の名を覚えている者は皆無であり、宗教そのものの存在を伝える古書の類も絶無であった。彼らの先祖・継承者を称する組織においてさえ、その存在は記憶と口伝の中のものでしかなかったのだ。
 にも関わらず、組織の者は2000年も前の栄光を追い求め、名も確かでない神の名を唱えながら、この白亜のビルに集うのである。

 それがそもそも、ギルの疑問の元であった。
 時の中に廃れきった神の庇護を今更追い求めてどうするのか。
 神の教えや慈悲を説くべき組織の長が、なぜ人の壁を超え神に近づくが如き存在であらねばならぬのか。
 そして、なぜ現在の人類世界を、その神の名において支配せねばならないのか。
 いくら神の名が廃れていようと、組織の目的はこの2000年間、常に明快であった。曰く、現行の宗教神紀・主権国家を一掃し、彼らの神を唯一の教えとし、彼らの組織の頂点に立つ者が唯一にして絶対の権力者となりうる。そのために、そのためだけに組織の者は活動を続けていたのだ。
 だが、ギルは考える。
 人間にとって、主権国家とはさして重要なものではない。例え上に立つ支配者が代わったとしても、まるで河の水が流れて川底の砂が少し漁れるようなもので、川底の岩は変化しない。自分たちの生活がよほど侵されでもしない限り、市民に劇的な変化は無いであろう。
 逆に、人類から現行の宗教を駆逐することは、まず不可能に近い。主権国家の概念と違い、宗教はそれを信じる人間の存在の根源そのものに根差しすぎている。自分の存在意義そのものを頭から否定されれば、まず多くの人間は反発するであろう。その宗教の規模が大きければ大きいほど、反発力も尋常ではなくなる。
 いくらギルとユリアンが人智を極め、組織の者たちが堅い結束力を誇ろうと、彼らの組織の欲するものは、痴者の夢想でしかないように思えるのだった。

 そこまで思考を発展させたギルは、最終的な疑問にたどり着く。
 もしかしたら、組織のものが愛しているのは神そのものではなく、その神が齎してくれる権益ではないのか。
 2000年前、神と神を信じる信者たちは、神の使途である彼らに、莫大な恩恵を齎した。
 彼らは、それをこそ、飛躍的な規模の巨大化とともに、この現代に夢見て求めているのではないのか。
 そして、それは恐らく、さして的外れな憶測ではないと、ギルは本能の触覚で悟り、幼少時から教え込まれた崇高な理想との齟齬に、彼は漠然とした不安を感じ始めていたのである。

 しかし、所詮、ギルは組織の人間であった。
 いかに意義と目的が理想とかけ離れていようと、組織それ自体の存在の意味までも否定しようとは思えなかった。
 それはすなわち、彼自身とユリアンとのこれまでの人生を、自らの手で全て否定してしまうことになるからである。
 ギルが理想としたのは、まるで夢見がちの少年の集団でしかない組織を内部から作り変え、崇高な理想を現実的な手段で行使できる、本来の位置に立ち返る精強な宗教集団への改変であった。

 だが、この考えをユリアンに語るのは、まだ早いように思われた。
 人生の各所で振り返り、慎重に考えながら生きてきたギルと異なり、ユリアンは与えられた目標と人生の目的を完全に一致させて、只管走り抜けてきた男である。
 組織を変えていく必要があることは、お互いの一致する認識であったが、ユリアンの思想はあくまでギルが操りやすいように上層部を固める、という意味での変革でしかなく、ギルの悩みを理解できるほどの柔軟さを彼に求めるのは、時期尚早であろう。

 ユリアンは、眼を閉じて何も語らなくなってしまったギルに対し、大きく息を吐いた。
 思えば、そこいらの獣でも、獣なりの悩みというものがある。まして万物の霊長である人類、さらにその頂点に立つべき存在であるギルに、悩みが無いはずがないではないか。
 いくら人間としての限界を極め、いかに神に近づこうとも、ギルは所詮人間であり、超越者にはなれないのだった。

 しかし、そうは解っていても、あるいは解ったつもりになっても、ユリアンはやりきれぬ。
 その蒼い瞳は、あるいはギル以上に憂慮を湛えていた。

「兄者よ、私は大きく落胆している。あなたの悩みを汲み取れぬ私の人格と、あなたの不安を軽減できぬ私の能力と、双方に、だ。人間の限界を極めたつもりで、補助すべき人の助けにもなれぬ。なんと愚かなことだ」

「いや、ユリアンよ、それは違う」

 ユリアンの言葉に、ギルは即座に反応した。

「私の悩みは、私の思考の齟齬からくるのであって、お前が自らを卑下する必要は全く無い。私にのみ出来ることもあれば、お前にのみ出来ることもあろう。少なくとも、私にとってお前の人格と能力は、充分すぎるほどに、私の助けとなっているよ」

「そう言ってもらえるのならば、幾分救われた気もするが」

 そう言って逞しい腕を組み、ユリアンはエレベーターの壁に体重を預けて、ギルの、いくぶん表情を取り戻したかに見える顔を直視した。

「確かに、私に解らぬことは多々ある。しかし、私の頭脳も四肢も、全て兄者の覇権の助けとするべく磨き上げたものだ。そのために使われる機会があるのならば、私は肉体の死すらも厭わぬであろう」

『肉体の死』という表現をしたのは、彼らの宗教の経典によれば、肉体の死と、精神の死と、魂の死は、それぞれ別個の終末であると定義されているからである。
 ユリアンはぐっと拳を握り固め、それをギルの目前に突き出した。

「兄者よ、もっと私の力を使え」

 自信と力感に満ちたユリアンの言葉に、ギルはまるで幼き日を懐かしむように彼を見るのだった。
 思えば、ユリアンが壁に当たったときはギルがアドバイスをしてそれを乗り越えさせ、ギルが迷った時にはユリアンの力強い鼓舞が彼の迷いを吹き飛ばしたものだ。
 これから二人で様々な何かを変え、様々な何かを失っていくであろう。しかし、この記憶と関係だけは、決して失ってはいけない聖域のように、ギルには思えた。

「なるほど、その通りだ」

 ギルは、完全に表情を取り戻す。目には自信を、口元に笑みを浮かべて、彼は頼れる弟分に向き直った。

「ユリアンよ、変えねばならぬ事項はそれこそ山のようにある。口で言う以上に厳しい道と現実が団体で待っているぞ」

「解っている。そのためにこそ、我らは生きてきたのだ。臆するべき理由は、どこにも存在しない」

 彼らしい、力感に満ちた笑いを返し、ユリアンはギルの肩を一回だけ叩いたのだった。


 深夜。
 そう、深夜といっていい時間帯だ。
 止まぬ音と光を眼下に見下ろし、二人を乗せたエレベーターは、上昇を続けていく。

 様々な思惑と齟齬を経て、ユリアンがギルに対して反逆の牙をつきたてる、それは二年ほど前の出来事であった。

(fin)

COMMENT

 恐らく、格闘ゲーム界でも類を見ないほど暑苦しい兄弟である、ギルとユリアンの話。
 ゲームでは、常人には思いもつかぬ、物凄いレベルで反目している二人ですが、最初からこんなに仲悪かったのかな、と思った結果、こんな話になりました。
 今ではお気に入りの一本ですが、忠誠心に溢れるユリアン、というのもちょっと怖い気はしますね。
 あの迫力と肉体で「兄者!」と迫られたら、私などはショック死しそうです。

(更新日不明)