「…みーっけ」
一致した。
何がかと聞かれれば、それは青年が今まさに目にしている光景がであり、何とかと聞かれれば、それは彼の腕に横たわっている絵画が表している世界とである。
アングルに寸分の違いこそあれど、ほぼ同じ景色といって微塵も差し支えない。この絵はここで生み出されたのだ。
縦横の長さが四対六ほどの長方形の額縁は、長身痩躯の青年の身体、その肩幅にようやっと収まるかという大きさ。その長方形の内側には、不自然なほどリアルに描かれた夜の街が広がっていた。
街を彩るものは星と月がもたらす光のみ。人工的な光はどこにも見当たらない。それでも遥か天空から降りそそぐ輝きのお陰でかなり明るいが、もしかしたらこの世界は真夜中なのかもしれない。ひどく深閑とした印象を受けるのだ。
青年も今まさに、腕の中の絵を見ずして同じ感想を持っていた。廃れた様子も全くないのに、目の前に広がる景色には生の空気が微塵も感じられない。人に限らず、動くものは何一つない。風も吹いていない。しかし、空気の澱みは感じない。
青年は腕の中に目を落とした。絵の左側には穏やかすぎる湖がさざ波一つたてず、鎮座ましましている。
青年が左を見る。澱みを全く感じさせない、澄んだ水。さざ波一つない湖面に青年の顔が不気味なほどはっきり映る。精悍ながらどこか柔らかさの残る面立ちを、短い黒髪が飾っている。
再び、青年の視線が腕の中へ。絵の右側には建物の海が広がっている。灯りはどこにもない。
青年の目が先程まで見ていた絵と全く同じ景色を映す。答えのない間違い探しと同じく、違いはどこにもない。
三度、視線が絵に戻った。絵の中心辺りから上辺ぎりぎりまでを時計塔が占領している。
青年は顔を上げた。視線の先に、堂々とそびえる時計塔。かなり離れているがそれでも高いと感じさせるほどの高さ。他の建物の優に三倍はある。土台の土地自体も高いのかもしれない。視線が上がって塔上部の大時計に。本来文字盤を歩んでいるはずの二つの針は、共に空からの侵略者を迎え撃たんとする矛の如く、天空に向かってびくともしない。
青年の視線も動かない。じっと時計塔を睨む。視神経に力を入れる感覚、目を凝らせるだけ凝らすイメージ。そして数瞬の後、彼は違和感を見つけ出した。
天を指し示す長針の先に、ひとりの少女が立っている。
「助かる。今回は楽に見つかった」
視線を落として答え合わせ。どんなに近くで見ても針の先には何もない。ふっ、と鼻を鳴らし、余裕の笑み。面を上げて針先の君にウインクのプレゼント。
「目覚めのキスを待つ姫……あまり待たすと失礼か。……待ってろ、今起こしてやる」
額縁に着いたバンドで絵を背負い、青年は大時計に向い、まるで絵の中のような街を歩き始めた。
……数歩歩いた後、ふと青年は立ち止まり、絵を腕に抱え直すと、そこに描かれている大時計をまじまじと見た。時計の針は依然天を指し示したまま、動いていない。
当たり前だ。
* * *
「……ゼィ……楽……ハァ……じゃねぇ……ゴッホ! ゴホ……あー、くそぅ……」
先程までの余裕はどこへやら、時計塔内の果てなく続く階段で、青年は無様にも這いつくばっていた。まるでカエルだが、青年にカエルのような脚力は備わっていない。今の彼はカエルにも劣るだろう。疲弊しきった身体にむち打ち、姫待つ空へと這い登る根性は賞賛に値するが、その姿に気高さや高貴さは微塵も感じられない。少なくとも王子のそれではない。
一気に下賤の身に成り下がった青年はそれでも姫の下へと這い登る。
夢見る姫が待っているのだ。彼女は夢に逃げている。どちらの意味でも、往々にして夢の見過ぎはためにならない。夢とは現実の中でこそ掴めるもの。夢見ているだけでは一生手に入らないのだ。
それに……寝過ぎは身体によくない。姫の身体を労るのも王子の務めだ。待ってろ、今行く、どこにも行くな。姫ともあろう者が寝坊なんてはしたないぞ。大丈夫、おはようはオレが言ってやるさ。
* * *
「誰?」
やっとこ辿り着いた最上階でしばし息を整え、扉を開けると、そこには少女の姿があった。彼女の位置から察するに、青年が開けた扉は大時計の文字盤の頂点、十二時の位置にあったらしい。針先の位置は青年の目線よりやや高く、少女を見上げるようになる。少女は青年の視線の先で、下で見たときと変わらず、大時計の長針の先に微動だにせず立っている。風は吹いていなかったが、その姿には不自然なほど危なげがなかった。
「はじめまして、お姫さま。オレは……王子さ、待たせたな」
「おう、じ……? きみが?」
少女の目が驚きで見開かれる。それから、みるみるうちにその顔に笑みが満ちていく。そして唇から漏れたのは
「お待ちしておりましたわ」
とか
「素敵! 会いたかった!」
などという、いかにもな台詞ではなく、
「……ふ、ははははははっ! きゃーっはははっ! うふふふ、ひー、おかしいよぅ……」
ひとり大爆笑だった。
身をよじらせて笑いながらも、何故か針から落ちない少女を、青年はただぽかん、と見つめている。何か変なことを言っただろうか。
少女は姫と呼ばれるに相応しい、天性の美貌を備えていた。純白のナイトドレスと色素の薄い長髪が、月光に照らされ、神秘的に光っている。わずかに残る幼さから、歳は十六か七といった辺り。今は美少女という形容が相応しいだろうが、あと二、三年もしたら絶世の美人と呼ばれるようになることに何の疑いも持てない。
片や、一介の青年。自称王子。時々カエル。
「ふふっ。きみぃ、王子さまはそんな顔でお姫さまを迎えに来たりしないよ〜」
少女がようやく体中で笑うのをやめ、しかし顔中で笑いながら青年を窘めるように言った。
青年は予期せぬ(?)答えに顔をしかめる。
「む……顔か」
悪くないはないだろ。by青年。
「そう。……あっ、違う違う! きみの顔がどうこういうんじゃなくて……ほらほら」
そう言って少女は自らの頬を両手で包んだ。青年が顔中にクエスチョンマークを浮かべる。
「何だ?」
「やって、ほらほら」
わけがわからんといった表情で青年が少女に倣う。少女が満足そうに手を離し、青年がまたそれに倣う。すると、
「うわっ! 何で!?」
何故か両手は真っ黒。それどころかよく見りゃ服まで真っ黒け。
「そうか。あの階段……」
階段は這い登るものではない。自業自得である。
「わかった?」
「ああ、やり直しだ。ちょっと待ってろ!」
青年が扉を閉めながら叫ぶ。扉の向こうでドタバタと音が聞こえてすぐやんだ。扉が開き、上着を脱いで半袖シャツになった青年が、ばつが悪そうな顔で現れる。顔の汚れも何かで拭ったか、ほとんど目立たない。ボトムは替えがなかったのか汚れたままだったが。
「……改めまして、王子です」
「ははっ、面白い人。とっても素敵な王子さま、お会いできて光栄ですわ。ふふっ」
「皮肉はいいよ、くそぅ」
なおもにやつく少女に、一応ジト目を送るが効果無し。子供っぽい笑い声は絶えない。
「クスクス……それで王子さま、私に何かご用かしら?」
完全にからかい口調だが、もう気にしない。さっさと用事を済ませよう。
「単刀直入に言おう。さっさと起きろ」
「いいよ」
即答。一秒かからず。
「……いいのか」
「いいとも」
にかっと、いたずらっ子のように白い歯を見せる少女。麗しい外見の割にとっつきやすい印象を受けるのは、こういう子供っぽさからだろう。声の幼さもあるかもしれない。
「でも、もうちょっと待ってほしいな。まだ出し切ってないからさ」
「出し切る? 何を?」
「何でしょう〜?」
青年の顔を覗き込むように身を乗り出し、首を傾いでおどけて見せる。針先から落ちる気配はまったくない。
どうやらこの姫君は相当に戯れがお好きらしい。まぁこれくらいかわいいものさ、これも王子の務めのうちだ。
青年が口を開き、
「おそらく――」
「残念〜、時間切れでーす。きゃはははははっ」
一秒たたずに遮られた。新たな笑いに身をよじらせている少女には、青筋だらけの青年の額は見えていないだろう。本当によく笑っていらっしゃる、落ちればいいのに。
「ふふふっ、今『そのままおっこっちまえ!』とか思ってるんでしょ? そうなんでしょ〜きゃはははは……」
……『落ちればいいのに』だよ。ちくしょう、いっそのこと落としてやろうか。
呆れ果てた青年が片手を頭にやると、少しは反省したか、少女の笑い声がやんだ。やはり顔中で笑ってはいたが。
「なぁに、怒ったの? そんなんじゃ私のパートナーにはなれないぞ〜。それにもうすぐ囚われの身になっちゃうんだもの、最後にこれくらいのおふざけは許されてもいいんじゃない?」
少しだけ、青年の顔色が変わった。少女は先程までと変わらぬ、屈託のない笑みを浮かべている。
「ね、きみ名前はある?」
少女は名前ではなく、その有無を尋ねた。
「ないよ」
「やっぱり」
どちらも一秒かけずに即答した。
「私と一緒だね。きっと理由も。だって――」
「「呼ぶ人がいないから」」
一字一句違わなかった。青年が少女の前で初めて笑みを見せる。少女も呼応して笑みに喜びを浮かべる。
「怒りだよ」
「ん?」
「さっきの問題の答え」
少女が虚空に足を踏み出す。彼女の体重を支えるものは何もない。が、当然のように彼女は虚空を歩いている。青年の顔に驚きは見られない。少女はゆっくりと、青年との距離をつめる。そして青年が初めて聞く、年相応の声で少女が呟く。
「聞いてくれる?」
「聞いてほしいなら」
何を、とは聞かなかった。
「気が利くね」
「気配りのできる男を自負してるからな」
「何それ〜、ふふっ」
「冗談だ、ははっ」
二人して笑う。可笑しそうに笑いながら、少女は青年の前まで歩いてきて、止まった。足下は虚空。同じ高さになると、少女の背丈は青年の肩あたりまでしかないことがわかった。
想いを言葉に変換しているのか、少女は数瞬口をつぐんで足下の虚空を見つめていたが、やがて顔を上げると、青年を見上げ、語り始めた。
「私ね、怒ってるの。苦しくて悔しくて、もうどうしようもないくらい腹が立って……現実から逃げて来た。夢の中には自由があった。おかげで今はとっても楽しい。でも、楽しい夢の時間が終われば、私の自由は現実がとっていっちゃう。私の自由は今だけなの。私に感謝するどころか、私の存在を知りもしない人たちのために、私は街に囚われなくちゃならない。街はひとりじゃ歩いてくれないから。ひとりぼっちになると、こんなふうに永遠に眠り続けちゃう。ひとりぼっちは私も同じなのにね。ほんと、手のかかる子供」
少女の口から自嘲の笑みが漏れる。青年は物言わず、ただ次の言葉を待つ。
少女が続ける。
「ずるいよね、みんな。なんで私ばっかりこんな不自由な思いをしなきゃならないの? みんな、私のことなんて知らないくせに。誰のおかげで毎日を過ごせると思ってるのよ。……なーんて言っても誰にも聞こえない。あーあ、私だってみんなと遊んだり、どこか遠くに行ってみたりしたいのになー。……ああ、なんて哀れな運命なのだろう……きみもそう思うだろ? 思うよな?」
少女が芝居がかった口調でおどけて見せる。
青年も調子を合わせ、
「ああ、思う。思うとも。私も貴女と同じ、囚われ人。気持ちは痛いほどわかる」
少女の笑みの種類が変わった。
「ノリいいね」
「ノリのいい男を自負しているからな」
「最初は仏頂面だったくせに〜。こーんな感じの」
「よせ、綺麗な顔が台無しだ」
「わ、口説かれてる?」
「何でそうなるんだ」
しばし、二人は笑いあった。
そして、少女はやおら、青年の手を両手で包み込んだ。
「あったかいね」
少女の視線は両手で包むぬくもりに。少女の手に、少し力がこもる。
「こうして誰かに触ったの初めてだよ。すごいね」
青年を見上げ、満面の笑み。不意にその笑みが、いたずらっ子のそれに変わり、
「こうするともっとあったかいかな?」
少女が青年の背に手を回し、二人の距離がゼロになる。
青年は、拒まなかった。そっと少女を包み込む。
二人とも無言でお互いの存在を確かめる。自らの身体でしっかりと確かめる。
そのままで、少女が続けた。
「こっちにはね、自由しかなかった。ひとりぼっちなのは変わらなかったよ。でもきみと出逢って、今はきみがいるならこのまま夢の中にいたいなって思ってる。……きみと恋ができたら素敵だな、って」
紅い頬を隠すように、青年の背に回された腕に、力がこもる。二人の身体がこれ以上ないほど密着する。そして、少女は束縛を解いた。
「でもね、それはダメだってわかってるよ。私には使命がある。きみにも、だよね。だから、無理じゃないけど……ダメなんだ」
少女は笑った。思えば青年と出会った時から、彼女はずっと笑っていた。こんなに寂しそうな笑顔は初めてだが。
青年も束縛を解く。そして小さいがはっきりとした声で、
「そうだな」
呟いた。
* * *
城壁に囲まれたこの街の唯一の入り口であり、出口。青年の背中の絵が生まれたこの場所で、青年と少女はふたり、向かい合っていた。
「そろそろ……起きるか?」
「うん、いろいろありがとう。会えてよかった。」
最後まで笑顔。青年もそれに応えてやる。
「こちらこそ。美しい姫に想われて、私は幸せ者だ。」
「ふふっ、愛してるわ、王子さま。忘れないでね」
「もちろん。……じゃあお別れだ。目を閉じて」
「うん……さよなら王子さま」
眠れる姫を起こす方法、そんなものは万国共通だ。
少女が目を閉じ、少し顎を上げる。
そして、青年の唇がゆっくりと少女に近づいていく。彼女のただ一点を目指して。瑞々しい唇がゆっくりと近づく。
そして――
「起きろぉ――――――っ!!!」
雷にでも打たれたかのような少女の顔を、ウインクでお見送り。少女の身体は雲散霧消し、それに呼応するかのように、街の時が動き出す。湖にさざ波が立ち、建物の海に灯りがともる。大時計の針もゆっくり歩き始め、街中に人の声が戻る。風が吹きはじめた。
青年はその様子をじっと見つめていた。少女の街に、時が戻る様を、ただじっと。
――額縁の内側に、時が戻る瞬間をしっかりと見届けた。
少しも揺らぐことなく青年の横顔を映す湖面に、さざ波は見当たらなかった。
顔を上げた青年がぽつりと呟く。
「こっちは誰が起こしてくれるのかねぇ」
この街に、変化はどこにも見あたらない。
「ついでにオレもこの悪夢から起こしてくれるとありがたいんだけどね……それとも、もう起きてるのかな?」
自嘲するように呟き、笑いが漏れる。
かぶりを振って絵を背負い直し、歩きだそうとして――
「……!」
――額縁から聞こえる喧噪の中に、憤慨する子供っぽい声を聞いた。
青年の口から、先程とは違う種類の笑みが漏れる。
そして一言、
「おはよう」
はっきりと呟いて、歩き出した。
現実? 夢? わからないまま――
青年は、夢を見ている。
(FIN)
まずは一言。
何の話だこれ?w
思えば
「『覚醒都市』っていうタイトルの話を創ろう。ふはははは、我ながらなんてしゃれたお祝いなんだろう」
……なんていう独りよがりな思いつきから始まったこの話。
いざ書き始めると、どんどん謎の世界観ができあがってしまい、結果なんだか訳のわからない話になってしまいました。
はは……ブランクって怖いなぁ。
などと言い訳してみます。
むなしい〜(泣)かなりすらすら筆が進んだので、おっ、意外と衰えていないぞ、な〜んて思ったのも束の間、読み返してみてなんじゃこりゃ! うあ〜、反省あるのみです……。
さらに、今恐ろしいことに気づいてしまいました。
「あ、都市出てこねぇな、この話」
ぐはっ! 致命傷……急いでタイトルに(?)をつけなければ……。
なんかもうスイマセン、粗だらけかもしれませんが、今回はこれでご勘弁を〜!
今TVでは、トリノ五輪生中継中ですw 深い時間だからなのか、自分の頭も変な方向に冴えてしまって、いろんなネタが浮かんできます。
次回の大きなお祝いでは、この汚名必ず返上して見せますよー、今日から特訓だ!w
とりあえず今頭にあるネタを挙げると――
栄太と同じ学ランを着て平然とクラスメイトと談笑しているのは……。
C、どうしておまえがここにいる!? となみが創るお絵描きミステリー!
……書き上げられそうなの一つもないやw
お祝いなのにふざけてばかりでごめんなさい。
でももはや勢いでごまかすしかないのです(泣)
えー、何はともあれ(?)一周年、本当におめでとうございます!!
これからもどんどん突っ走ってください。
お互いがんばりましょうね!
となみさん、ありがとうございました!
ご本人は謙遜されてますが、私は好きですね〜、この世界観。あるがままに受け入れる“お姫様”も、それを受け止めきった“王子様”も、なかなかに素敵だと思うわけです。
それと、読ませて頂いてて思ったんだけど、私などが言うのもなんなんですが、となみさん、めっちゃめちゃ文章が上手くなってます! 新サイトではブックレビューを中心に活動されてますが、小説は書かれないのでしょうか? うー、新作が読みたいですよ。
そして、あとがき後半の企画群。やべぇ、どれもツボだ(笑)。