物思い 2

ALICE様・作


「うー」

 息を吐き出しながら大きく伸びをしてみれば、ギシリと背もたれが音を立てた。そのまま仰け反って、ぼんやりと天井を眺める。
 ちょっとだけ視線をズラして壁の時計に目をやれば、あと一時間と少しで日が変わる時刻だった。

「……むー」

 一日って短い。そんな思いを込めて、唸る。いや、まぁ、そうしたところで時間が戻ったり止まったりしないのは、百も承知なんですけどね。
 しかし―――――
 ホントに短い。もうちょっと有意義に使うべきなんじゃなかろうか。何であたしは一日の三分の一を机の前で過ごしてるの?
 自問してみるけれど、答えはわかりきっている。勉強しないといけないからだ。学校で、あるいは家で。どちらにも共通する目的は……。

「まぁ、受かっちゃえばコッチのもんよね」

 そう、あと数ヶ月もすればこの苦しみからも解放される。そうすればこれまで以上に、綾の傍にも居てあげられるのだ。
 もっとも、あの子はまた顔を赤くして、憎まれ口を叩くんでしょーけど。と、数時間前の事を思い出して、あたしは小さく吹き出した。

 あたし達の関係は歪なものなのかもしれない。そう考えた事が、何度かあった。
 世間から見れば、綾はともかくあたしの行動は行き過ぎている。干渉しすぎだと、時折自嘲する事もあった。
 しかし、自覚していても、あたしはそれを止められないでいる。いや、多分きっと、これからも続けていくに違いない。
 あの子が自分に押し潰されないように、支えてあげる誰かが傍には必要なのだ。独りよがりな考えなのかもしれないけど、あたしは絶対にそうだと信じている。
 もっと早くにこうしていれば、あの子が自分を傷つける事も―――――

「楓ちゃん……早く起きると良いのになぁ」

 綾が何よりも望んでいるであろう願いを、あたしもそっと口にしてみる。今ではあたしの願いにもなっている、その希望。
 あたしに詳しい事情は分からない。が、綾が今のようになってしまったのは、楓という名前の少女が原因だという事は知っている。
 神崎 楓。綾と同じ歳の、栗色の髪をした、少し小柄な女の子だった。あたしも何度か会った事がある。
 いや……この場合、『面会した事がある』と言うべきなのだろう。実際、彼女は今も病院で眠ったままなのだから。
 今から四年前の冬。つまり、綾がまだ小学四年の頃に、楓ちゃんは転校生として綾の学校にやって来たらしい。
 最初から色々と騒ぎがあったらしいのだが、あたしは既に中学校に上がっていたので、これまた詳しい事は分からない。綾自身、楓ちゃんについては何も語ってはくれないのだ。
 ともかく、その騒ぎが原因で、綾は楓ちゃんと親しくなったのだろう。あの頃の綾は妙に活き活きとしていたのを、覚えている。

 で、それから二ヶ月ほど経って―――――彼女は眠ってしまった。

「……誰のせいでもない、って言うのは無責任なのかしら」

 病院に運ばれた直接の原因は、腹部の刺し傷。文字通り、彼女は刺された。その頃に出没していた、連続通り魔の犯人によって。
 近くの商店街で起こった事件だったので、あたし達にとってもかなりの騒ぎとなった。何しろ身内が現場に居合わせたのだから、当然だ。
 あたしも知らされてすぐに綾の元へ駆けつけたのだが……力になったとは、とてもじゃないが言えない。何も出来なかった。何一つ、してあげられなかった。
 しかし、問題はそこでは無い。一命を取りとめた筈の楓ちゃんが、目を覚まさないという事態。それこそが問題であり、今の現状なのだ。
 原因は、誰にも分からない。医者によれば、何処にも異常は無いと言う。では何故、彼女は目を覚まさないのか―――――?
 誰もが頭を抱えたに違いない。そして、それは綾も同じだ。いや、あの子にしてみれば、もっともっと、受け入れ難い事実だったのだろう。
 一緒に居て、誰よりも近くに居た筈なのに、守る事が出来なかったと。綾は、泣き続けたのだから。

「ん?」

 天井を見上げたままでしばらくボーッとしていたところ、カーテンの向こう、窓の外で何か物音がした。しっかり判別出来たのは、ガラガラという少し五月蝿い音。
 今あたしが居るこの部屋は、二階。そして、この窓の向こうの家は、数時間前まであたしが居た場所。つまりは、そういう事だ。
 あたしは椅子から腰をあげて、向かいの家の住人と同じように、カーテンを開けて窓を力一杯開け放った。

「こらこら、未成年。こんな夜中に何をしとるか」

「……勉強してたんじゃないの?」

 声をかければ、予想通り綾は若干驚いたような顔で尋ねてきた。その指の間には ――――― 一本の細いナニカが挟まれていた。

「ほら、根を詰めすぎると返って良くないし。それに、今日はもうそんな気分じゃ無くなったのよ」

「なに? 俺のせい?」

「うーん、綾のせいと言えなくもないけど、って! 何事も無かったかのように咥えない!」

 こればっかりは止めなくては!   と慌てて注意してみるが、止める術と言えばブツそのものを引っ手繰るしか無いわけで。それも距離のある今では実行出来ない。
 綾もそれが分かっているからなのか、あたしの言葉などには意も介さず、ソレを咥えたまま先端に火を点けた。先が燃えたかと思えば、すぐに紫煙が夜空に昇っていく。

「あのねー、ホントに煙草だけは止めなさい。身体に悪いんだから。大体、隠れるくらいなら吸うんじゃないのっ」

「そこまで干渉される謂われは無いね。ちなみに、既に見つかってるから隠れてない。部屋に染みがつくから、外に向けてるだけ」

 綾はニヤリと笑うと、また煙草を咥えて、煙を吐き出した。くそー、これ見よがしに……!

「つーか、そっちこそ未成年のくせに酒飲むだろ。それは良いのかよ?」

「お酒は百薬の長って言うのよ。煙草なんて百害あって一利無しじゃない。大違いってなもんよ」

「いや、未成年……」

 あたしの完璧なる正論に何も言えないのか、綾はぼそぼそと呟くだけで、すぐに口を閉ざしてしまった。ホンットに背伸びしたがる年頃なんだから。
 お酒については……まぁ、悪い事だとは自覚してるんだけどね。でも、節度を守って楽しめば、何の問題も無いと思うの。すぐに気分良くなれるし。

「まぁ、いいけどさ。で?」

「へ?」

 ちょっと意識を内に向けていたせいか、我ながら間抜けな声を出してしまった。

「だから、何か用かって。わざわざクソ寒いのに窓開けたんだから、何かあったんじゃないの?」

 不思議そうに、綾は尋ねてきた。その顔を見る限り、他意は無い様に思える。……この子、案外鈍いしね。

「特に無いわ。ちょっとした世間話、みたいな?」

 急に良い言葉が浮かぶ筈も無く、あたしは嘘偽りの無い事実を話す事にした。しかし、綾にとってはそれも意外だったのか、何故か訝しげに眉を顰めた。
 最近の綾、こういう表情をしている事が多くなったなぁ―――――と、心の中で呟く。

「ホントだってば。夕方の続きじゃないけど、用が無かったら話しかけちゃいけない?」

「そうは言わないけど……わかんねぇんだ」

「何が?」

 今度はあたしが尋ねれば、綾は何かを考えるように一度目を伏せ、また宙に向かって紫煙を吐き出した。
 そして、長くなってきた灰色の部分を、銀色の細長い筒に落とす。あ、携帯灰皿か……って、アンタ外でも吸ってんじゃないでしょうね!?

「何で雪姉が、そこまで俺に構うのかが」

 問い詰めようとする前に、綾の方が先に口を開いていた。それも、あたしが長らく待ち続けた類の言葉で。
 続きを思案しているのか、綾はさっきと同じ動作を繰り返す。あたしも変に茶化す事はしない。
 ようやく綾から振ってきてくれたチャンスだ。これを無駄にすると、次はいつになるかわかったもんじゃない。

「……そりゃ本当の姉弟みたいかもしれないけどさ、実際はそうじゃねぇし」

「うん」

 どうにもならない事実に、相槌を打つ。
 綾は俯いた。

「今まで、正直ウザいって思う時が何度もあった。薄々、気付いてたと思うけど」

「そだね。ここ一年くらいは、あたしも泣きそうだった」

 打ち明けられる本音に、自分の本心で答える。
 あたしは頬を緩めた。

「なのに……雪姉は変わらねぇから、余計にわからなくなった」

「あー、それはゴメン」

 上手い言葉が見つからなかったので、咄嗟に謝ってしまった。

「いやね、違うの。あたしは意識して変わらないようにしてたから」

「なんで…?」

 慌てて取り繕うように続ければ、綾は再びあたしに目を向ける。生傷ばかりの顔に、夕方のような眼差しはなく、まるで四年前の、あの頃のようだった。

「答える前に、煙草」

 短すぎない?と注意すれば、綾は素直に携帯灰皿に押し付けた。うん、これが本来あるべき形なのよね。ホントは良い子なんだから。
 子供の頃(と言ってもそんなに昔じゃないけど)に戻ったような感じが懐かしい。ともかく、先を続けてあげないと、綾は誤解したままだ。それは余りに心苦しすぎる。

「んーっとね? どう話せばいいのやら……あ。まずはさ、綾が最初に変わっちゃったじゃない?」

「……ああ」

 そう。楓ちゃんの事件があってから、綾は変わってしまった。端的に言うなら、笑わなくなった。心から笑わなくなった。
 他の誰が異を唱えようと、あたしには分かるんだ。ずっと傍にいて、ずっと見てきたんだから。

「やっぱし、何か一つのものが変わるだけで、周りも変わっていっちゃうワケよ。綾もその事には、ちゃんと気付いてたでしょ? 周りの対応とかさ」

「そう、だけど……俺が望んだ事だからな。俺からは何も言えないよ」

 言って綾は、頬を緩めた。でもそれは、何処か陰のある、嘲りを含んだ笑みだ。
 生きていくには、人に触れ合わなくてはならない。時にはそれが煩わしい時もある。自分が辛い時なら尚更に。
 そんな状況に置かれた時の選択肢は、究極のところ依存か拒絶か。この二つじゃないかと思う。
 綾がどちらを選んだのかは、もはや語るまでも無い。

「うん。だから、あたしも特には何も言わなかったでしょ? それっぽい振りはしてたけど、直接問い詰めたりはしなかったと思うんだけど」

「……だな。家に来たって、くだらない話ばっかりだったもんな」

 けど、あたしがそれを認めなかった。あたしと綾は違う人間だから、完全な意志の疎通なんて出来ないし、また全部が同じになる訳はない。
 現に今、こうやって会話を重ねる事で、理解を求めている。互いの考えに齟齬があるから、それを修正しようとしている。
 ちょっと思ったけど、やっぱしこれって、あたしのエゴなのかもね。

「変わらない振りをしてればさ、こうやって綾の傍に居てあげられると思ったの」

「え?」

「ウザがられても、それすら気にしない無神経さで会ってれば、綾も諦めるんじゃないかなーって。結構、根気と努力の勝負だったけど」

 あははーと笑って言えば、綾は信じられないモノを見るような目で、あたしを見つめてくる。

「ちょっと待って……じゃあ、なに? 要するに、キャラ作ってたって事か?」

 恐る恐るといった感じに尋ねてくる綾。概ねそんなところなので、あたしは首を縦に振り、

「まぁ、分かりやすく言うとね」

「……ちなみに聞くけど、今の雪姉もキャラ? つーか、本気でアンタがわからなくなってきた……」

「失礼ね。作ってたのは……えぇと、無神経とかメゲないキャラの時?」

「何で疑問形なんだよ……? 大体、雪姉は元々無神経じゃないかっ」

 噛み付くように言いながら、綾は頭を抱えてしまった。理解に苦しむ様子が、本当に手に取るようにわかる。

「ホンットに失礼ねぇ。笑顔の裏に隠された真実の涙……あぁ、あたしってば健気!」

 胸の前で指を組み、夜空を見上げてみたり。実際、本気で泣いた事だってあるんだから、馬鹿にされる謂われはそれこそ無いと思うんだけど。
 というか、今日は三日月なのね。星も綺麗だし、こんなシリアスな話には持ってこいじゃないの―――――と物思いにふけようとした瞬間に、綾がガバッと顔をあげた。

「自分で言ってりゃ世話ねぇよ……! なんでそこまでするんだ? マジでわかんねぇ!」

「いや、あたしにしてみれば、今更それを聞くの? って感じなんだけど。あたしがしたいからに決まってるじゃない」

「だーかーらー! そこが理解出来ねぇ!」

 何が気に入らないのか、綾は更に声を荒げる。どうでもいいけど、時間的にその音量は近所迷惑だと思うのね。窓開けてるわけだし。
 それはともかく、あたしには綾の言う事こそがわからないのだ。

「さっきも言ったけどね? 綾があたしを雪姉って呼ぶ限りは、あたしは綾に構い続けるの」

「そっ……」

「良いじゃない、周りなんて。あたしは綾を弟だと思ってて、傍に居てあげたいんだから。例え迷惑だと思われてもね」

 一息に告げれば、綾は数時間前のように言葉を探すが如く、口をパクパクと動かす。しかし、案の定、何も浮かんで来ないらしい。しかも、今度は赤面つきだ。
 まぁ、我ながらムチャクチャな理由だけれど、自分にとって一番の真実なのだから仕方ない。
 無論、綾がはっきりと拒絶の意を表せば、あたしも身の振り方を考えるのだが……この調子だしね。
 誰にも強制は出来ない。何かを言われたとしても、最後に決めるのは、自分自身。その自分が、この子の傍に居る事を選んだんだから。

「というわけで、あたしは綾に構うのでしたー。どうしても嫌なら、名前で呼ぶ事ね。そっちの方が誤解されるだろうけど」

「なんかさぁ……俺に拒否権なくね?」

 やっとこさ諦めてくれたのか、綾はため息をつきながら、新しい煙草を手にしていた。その眉間には、やはり皺が寄っている。

「そんな事ないわよ。だから、名前で呼んでくれたら、ある程度は控えるようにするし」

「……さっきの衝撃の事実があるからな。アンタの言葉を何処まで信用すれば良いのかが、わからない」

 吐き捨てるように言いながら、また火をつける綾。いやぁ、なんかもう、こういう反応されるとホントに嬉しいわ。

「まぁまぁ。ともかく、アンタってのは今は駄目よ。ちゃんと決断してくんないと、あたしも明日から困っちゃうじゃない」

「……あー」

 からかうように笑みを浮かべて尋ねれば、綾は片手で頭を抱えつつ項垂れて―――――

「雪姉はホンっっっっトに良い性格してるよなぁ!!」

 と、最高の褒め言葉を贈ってくれた。
 んー、まぁ、ここまで来るのに四年もかかっちゃったけど、また一歩前進出来たって事で良しとしますか。

「綾ー」

「んだよ」

「大好きだよー」

「うっせぇ! 寝ろ!」

 最後に近所迷惑すぎる声を張り上げて、綾はピシャリと窓を閉めてしまった。続いてガチャンという音まで聞こえてきた。
 あらら、今日はもう終わりってことね。……煙草、まだ点いたままだったような気もするけど、いっか。

「いやー、本当に今日は気持ちよく寝れそー!」

 あたしも窓を閉めて鍵をかけ、盛大にベッドに飛び込んでみた。
 即座に階下から怒鳴り声が飛んできたけれど、今のあたしにとってはどうでも良い事だった。

 全てを語り合う夜は―――――まだもう少し、先のこと。

(To be continude...)