物思い 1

ALICE様・作


 学校が終わって、友人と談笑しながら帰路につき、家の玄関を開けると同時にお決まりの挨拶を。
 出迎えてくれる暖かな言葉に笑顔で相槌を打ちながら向かう先は、今の自分が最も落ち着く空間だ。
 そこへ足を踏み入れれば、最近は特に重くなっている鞄を隅に置き、日課となってしまった部屋の観察を行う。
 ……相変わらず、綺麗に整理されている。この部屋を見てマイナスの印象を抱く者は、よほどの潔癖症と判断して良いと思う。

 昨日と何処も変わっていない事に安堵の息をつきつつ、制服の上着を脱いでゆく。
 毎日着るものなのでわざわざ仕舞うような真似はせず、クローゼットの取っ手に吊るしてあったハンガーにかけておく。
 いくらか動きやすくなったけれど、傍から見ればまだ十分に、何処の高校かの区別はついてしまう……が、家に居る以上、人目を気にする必要も無い。

 頭の中でそう結論を出して、夕飯まで仮眠を取る事にした。というのも、昨日は提出期限ギリギリの宿題のせいで、徹夜だったのだ。
 平日に馬鹿みたいに寝るというのも、たまには良いのかもしれない。むしろ、実行しない方が罪。
 何だかとても幸せな事に思えてきたので、このままベッドに飛び込むことに、抵抗なんてものは全くありはしなかった。
 きっと気持ちの良い音がするだろう、と期待して倒れこめば、バフッと予想通りの音で自分を迎えてくれる。

「……おやすみ」

 誰にとも無く別れの言葉を呟いて目を閉じれば、暗い世界。物音も一切聞こえてこない、闇の中。
 あぁ、このままだったら一分もしない内に、睡魔が優しく意識を刈り取ってくれるに違いない。
 段々と、何も考えられなくなっていく。ダンダンと、何かに追い立てられるように。

 ダン、ダン、ダン、ダン。
 ダン、ダン、ガチャリ。

 まるでリズムを刻むように―――――って、ガチャリ?

「ざけんな、コラ」

 耳に飛び込んできたのは、優しさとは最も遠い場所に居るような、冷たい声だった。

「あのなぁ……家に来るのは勝手だし、部屋に入るのも構わない。でもな?」

 そこで一旦、言葉が途切れた。続きを考えている?
 いや、そんな事は無い。これまでの経験からして、あり得ない。
 というわけで、あたし(・・・)は布団を頭まですっぽり被って、少しでも音を遮れるように身構えた。

「何で俺よりも先に帰って来てあまつさえ寝ようとしてやがるんだっ!!」

 恐らく家中に響き渡っているであろう音量には、とてもじゃないが、意味のある行為だったとは言えないけども。
 さて、怒りも露な相手を前にして、あたしに出来る事と言えば……。

「……ぐー」

「狸寝入りにもなってねぇ! 起きろ! いや、身体を起こせ!」

「わめかないでよー。折角、眠れそうだったのに……」

「雪姉さえ常識的な行動を取ってくれれば、俺だって騒がないで済むんだよっ」

 吼えたかと思えば、グイグイと布団を引っぺがしに来た。一応の抵抗はしてみるけれど、ぶっちゃけ、そんなに頑張る気は無い。
 あたしは女で、相手は男。単純な力勝負では既に勝てなくなっていたので、これはもう降参する他にないのだ。
 案の定一分も経たないうちに、しがみ付いていたあたしごと引き起こすような勢いで、布団は捲られてしまった。
 恐々と目を開けば、窓から差し込む夕日に照らされた黒髪が視界に入り、お世辞でも目つきが良いとは言えない眼差しが自分を見下ろしていて。

「おかえり、綾」

「うるさい、どけ」

―――――取り付く島は、全く無かった。


「雪姉が居るといつもコレだ……。なんで家に帰って来てまで、疲れなきゃいけないんだよ……」

 メチャクチャ不機嫌そうな声で愚痴をこぼしながら、愛しい弟は数分前のあたしのように制服を脱ぎ始めた。
 ……いや、実際に不機嫌なんだろうなぁ。滲み出る雰囲気が、この上無く刺々しい。
 ただでさえ最近は荒んだオーラを発しているというのに、その頬に貼られたガーゼや絆創膏と相まって、余計に尖った印象を受けてしまう。
 というか、またなんかアザ増えてないかしら?

「疲れてる時は、しっかり栄養を取って十分な睡眠を取らないと嘘ゴメン」

 良心からのアドバイスをしてあげようとしたにも関わらず、言い終わる前に思わず目を逸らしてしまうような視線で睨まれる。実際、逸らした。
 雪音は驚きすくみあがった!みたいな。あ、雪音っていうのは、あたしの名前ね。フルネームは山瀬雪音。花も恥らう高校三年生の乙女。以後よろしく。
 そして、現在進行形で黙々と制服をハンガーにかけようとして、ピタリと動きを止めた男の子の名前は、綾人。
 若槻綾人という、あたしの最愛の弟だ。あたしとは五つほど年が離れていて、現在……中学二年生という多感なお年頃である。

「どしたの?」

「……なんで俺の制服を掛けるべきであろう場所に、先客が居るんだ?」

「あたしが掛けたから」

「どうしてアンタはそういう行動を?」

「だって、床に置いたら皺になっちゃうでしょ。綺麗だけど、埃つくと嫌だし」

「……もういい」

 綾はため息をつくと、クローゼットを開けて新しいハンガーを取り出した。それを眺めながら、思う。やっぱり詰襟って良いよね。男の子って感じがしてさ。
 カッターシャツも脱いだ綾の格好は、制服を着ている時とあんまし変わりない。軽くなった感じがするだけだ。中のシャツも黒だった……って、黒すぎ。
 とはいえ、あたしも制服のスカートと学校指定のブラウス姿のままだから、人の事を言えた義理じゃないんだけど。
 すると、憮然とした面持ちで、綾は再びため息をついた。あ、さすがにあたしの前でも下は着替えたりしないのね。

「あのさぁ」

「ん?」

「何回聞いたか、もう数えたくも無いけど……何しに来た?」

 わざわざ強調してこなくても、表情が「しんどいんですけど」と語っていた。

「別に何も」

「だったら帰れ」

「うっわ、お姉ちゃん、悲しくて涙が出ちゃう」

「そのまま泣いて自分の部屋の枕を濡らせ」

 半ば本気っぽい口調で、綾は音を立てて机の傍にある椅子に腰掛けた。うーん、今日はやけにご機嫌斜めだわ。

「……だいたい、血は繋がってねぇだろ」

 ぽつりと呟かれた言葉。それは今までとは違う声音で、あたしの鼓膜を震わせた。
 一瞬、飛びかかって抱きしめてやりたい衝動にかられてしまったが、それをすると本気で怒りそうなので何とか思いとどまる。
 まぁ、実際、綾の言う通りだ。あたしと綾は本当の姉弟じゃない。単に家が隣同士だという、素晴らしく明快な理由で親しいだけ。
 でもあたしは、綾が生まれた頃から傍に居るし、綾だってずっとあたしの傍から離れなかった。今の状況も、その延長だと言える。
 血の繋がりはどうしようもない。けれど、世間のソレと比較しても決して劣りはしない、とあたしは自負している。じゃあ、養子とかどうなんの?って思うし。
 そもそも、うちの親と綾の親御さんは昔っからの長い付き合いらしいし、もはや友達とか親友とかいうレベルじゃないんだからさ。

「用が無いと来ちゃ駄目ってことは無いんでしょ?」

「そりゃな。けど、アンタの場合は頻度がおかしいんだ。ほぼ毎日だぞ? 俺んトコに来たって」

 そこで一旦、綾は言葉を切って、ふっと頬を緩めた。微笑みというほど爽やかなものではなく、どちらかと言えば嘲りを含んだような、そんな笑みを浮かべて、

「何もする事はないし、面白い事があるわけでもない。誰が考えても、おかしいって答えると思うぞ」

「んー、でもそれは綾の見解なわけで、あたしの答えじゃないよ。あたしはこうやって話してるだけで満足だし」

「……そもそも、俺にはそこが理解出来ねぇんだけどな」

 本心を口にすれば、綾は投げやりに呟いて、真っ白な天井を見上げた。綾は綾で色々と考えているみたいだけど、口であたしに勝とうなんて、十年は早い。
 こんな事で満足感を覚えても仕方ない、と思う人も居るかもしれないが、これはこれで大切な日常なのだ。あたしにとっても、そして、綾にとっても。

「っていうかね、隣人じゃないにしても、知り合いが毎日傷だらけで過ごしてたら、誰だって気にするわよ」

 なので、今日はちょっと直球で尋ねてみる事にした。恐らく綾にとっては、触れられたくないであろう事柄だ。
 案の定、綾はちらりとあたしに視線を向けて―――――また天井を眺めた。ほら、目も合わせてくんない。拒絶の表れだ。

「……喧嘩の相手と内容を言ったって、それこそつまんないだろ」

「まーね。でも、それプラス原因まで話してくれるんなら、喜んで聞くわよ?」

「だから、つまんないって。ガン飛ばしたとか、向こうから因縁つけてきたり、そんなのばっかだ」

「それは全部、綾についての因縁かしら?」

 出来るだけ自然な感じになるように気をつけて、問う。
 けれど、あたしの意図に気付いてか否か、綾は何も変わらない様子で、

「当たり前だろ? 他人の文句にまで腹を立ててどうするんだ」

「えー、あたしの陰口聞いても、怒ってくんないの?」

「誰がそんな恐ろしい真似をするんだよ……」

 軽い調子で頬を膨らませれば、綾も苦笑いを浮かべた。……これはまだ、時間がかかりそうだわ。
 中学生ともなれば喧嘩の一つや二つは、極々普通の通過儀礼なのかもしれない。でも、この子の場合はちょっと特殊だ。
 中学校に入ってから綾は生傷が増える一方で、綺麗な顔のままで、一週間も保った事が無いのかもしれない。
 世間一般でいう不良と何ら変わりない。もっとも、綾に言わせれば『あんなのと一緒にするな』らしいが、何処が違うというのか。
 まぁ……そうなっちゃった原因をあたしも一応は知っているだけに、強く言う事も出来ないんだけど。綾が心を開いてくれないと、何の意味も無いんだし。

「あー……結局、雪姉には関係無い話だよ。俺は大丈夫だから」

 と、さらに駄目押しの台詞まで言われてしまった。月並みすぎる言葉なのに、実際に言われてみると意外に重い。
 しかし、ヘコんでいる暇は無い。こんな調子でも、昔に比べれば大きく進歩したのだから。
 こんな会話の応酬を続ける毎日を、嬉しく感じる自分が居る。そう思うのは、こんな会話でさえ出来なかった日々があるから。
 さっき綾は血がどうこうって言ったけど……誰よりも綾自身が、自分の言葉を否定しているのだ。その事に本人はきっと、気付いていない。

「ねぇ、綾」

「なんだよ?」

「あたしの名前を言ってみろー」

「はぁ?」

 最初の方の怒気は何処へ行ったのか。今度は呆れたような顔で、綾はあたしを見つめてくる。
 間抜けじゃなくて、呆れたようなってところが憎たらしい……。なんかちょっと、哀れみまで混じってない?
 いや、それは置いとくとして、まずは言質を取る方が先よね。

「ボケたの? さっきから雪姉って呼んでるだろ」

「それよ」

「いや、どれよ?」

「あたしは雪音って名前であって、雪姉じゃないもーん」

 笑って間違いを正してやる。しかし、綾の表情は変わらずに、より眼差しに力を込めて来た。

「……病院行く?」

「なんでそうなんのよっ? 日に日に毒舌になっていってない!?」

「だって、意味わかんねぇし。今の質問、何だったのさ?」

 胡散臭げに頬杖まで突き出した綾。……まぁいいわ。そんな態度もあと五秒よ。

「綾がそうやって呼ぶ以上、あたしは綾のお姉ちゃんだって話ー」

「は―――――?」

「だから、関係あるのよ? 心配するのに権利なんてのは、必要ないんだから」

 してやったり。あー、鬼の首を取ったって、こういう時に使うのね。
 今の綾の顔こそが、間抜けという顔なんでしょうね。ううん、もう通り越して馬鹿かもしんない。

「雪姉……揚げ足取りって言葉知ってる?」

「一応ね。これでもあたし、受験生ですから」

 胸を張って答えてやれば、綾はパクパクと口を動かす。けれど、何も浮かんで来ないに違いない。最後には俯いてしまった。
 そんな綾に気付かれないように、あたしはゆっくりとベッドから降りて傍に立ち、その肩にそっと手を置いてやる。

「ふふーん、いつでも頼っていいのよ? なんたって、お姉ちゃんだから」

「だぁぁぁ! うっせーなっ! 頼る事なんかねーって!」

「素直じゃないわねー。そうやって照れ怒る綾も可愛いけど」

「か、可愛いとか言うなチクショウ!!」

「コラコラ、さすがに近所迷惑だって」

 立ち上がって逃げ出そうとした綾だけれど、そんな焦った動きであたしから逃げられると思うてかっ。
 足をかけてバランスを崩し、肩に置いていた手に力を込めて、後ろに引き倒す。その先は、あたしがさっきまで座っていた綾のベッド。
 単純な力勝負じゃ負けちゃうけど、武道歴はコッチの方が五年も長いもんね。ケンカばっかりで鈍ってるんじゃないの?

「家に帰ったら缶詰だから、あと二時間は遊んでちょーだい」

「知るか! もういっそ浪人しろよ! 落ちろ!」

「い、言うに事欠いて何て不吉なワードを!!」

 騒音に耐えかねた綾のおばさんが止めに入るまでの二十三分間。
 綾はどうか知らないけど、あたしの方は本気で絞めにかかった。

(To be continude...)