「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な水木しげる先生の妖怪がいっぱい出てくる、水木しげるファン&妖怪ファンにはたまらない一本。
……というか、「ファミ通」で月イチ連載していた柴田亜美氏の漫画「ドキばく!」の劇中で、エンターブレインの柴田氏担当者・オザワ氏が熱狂的に賛美&プレイしていたゲームとして、ごく一部でえらい有名になりました。
主人公が目指しているものが「妖怪研究家」って時点で、自分の人生をどうひねくり回してもこんな「イメクラ自分」とは遭遇できないでしょうが、映画「妖怪大戦争」にはまった人なら、けっこう楽しめるのではないでしょうか。
ストーリーは、水木先生が大切に保存していた妖怪たちが封印の壷から逃げ出してしまったから、さあ大変。プレイヤーは「うんがい」という不思議なカメラで全ての妖怪を写真に封印し、水木氏のもとに持ち帰るのが目的。
水木先生、やっぱり「本物」を「持って」らっしゃったんですね……。
妖怪を写真に撮る、といえばけっこう簡単そうですが、これが意外と大変。
行動できる範囲が非常に広い上に時間経過の概念があり、妖怪によって出没する地域から時間まで違うため、かなり根気良くプレイする根性が必要です。
しかし、解像度が低いながらも妖怪のイラストは実に味があり、写真の「写し方」や「写り方」にもパターンがあって、段々と埋まっていく「アルバム」を見ていると、とりたてて水木先生のファンでもない私でも、熱狂的に嵌っていたエンターブレインのオザワ氏の気持ちが、ちょっとだけ理解できるような気もします。
また、アルバムにたまっていく「妖怪写真(カード)」にはそれぞれ「攻撃力」や「体力」が設定されており、これを使ったカードバトルも用意されています。CPU戦だけではなく通信対戦も用意されているので、暇つぶしに最適ですし、妖怪の写真の写り方によって攻撃力や体力が変わるので、それ目的で写真収集に熱中することもしばしば。
本作は、やや地味さが拭えない一面はありますが、非常によく纏まった「良作」です。
妖怪の生物学を真摯に研究した好著「ろくろ首考」の著者・武村政春氏は、同書のなかで、
本当は、人間にも天敵など、恐れを抱く相手が必要なのだ。生態系と隔絶した私たちにとって、太古の昔にそうであった自然の異種生物に対する恐れを、妖怪という想像上の異種生物に転嫁することは重要だったのだ。
(中略)
ということは、妖怪という妖しいものどもも、生物が持っている様々なメカニズムを駆使すれば、生物学的に存在が可能なのではないか。
(武村政春 「ろくろ首考」 2002年)
と書いています。これを、半世紀も前に「漫画」という形で実践し、妖怪たちに命を与えることに成功したのが、誰あろう水木しげる先生なのです。
かつて寺田寅吉が80年も前に指摘したように、科学が発展するにつれ、その真価が誤解され、空想上の怪異・化け物という伝説の存在は希薄になりつつあります。
全くこのごろは 化け物どもがあまりにいなくなりすぎた感がある。今の子供らがおとぎ話の中の化け物に対する感じは ほとんどただ空想的な滑稽味 あるいは怪奇味だけであって、われわれの子供時代に感じさせられたように頭の頂上から爪先まで突き抜けるような鋭い神秘の感じはなくなったらしく見える。
(中略)
ともかくも「ゾッとする事」を知らないような豪傑が、かりに科学者になったとしたら、まずあまりたいした仕事はできそうにも思われない。
(中略)
宇宙は永久に怪異に満ちている。あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻である。それをひもといてその怪異に戦慄する心持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまうのである。
(寺田寅吉 「化け物の進化」 1929年)
私たち一般人は、「最先端の科学」と接する機会はなかなかありません。寺田のように、切実な危機感に直面することは難しかろうと思います。
しかし、それであるがゆえにこそ、科学に興味を持つ好奇心の半分くらいでも、ゲームという現代人が手に取りやすい媒体の本作で、日本の伝統の一旦である「妖怪」の存在に向けてみるのもいいのではないでしょうか。
(2006.11.01)