第四話G
「じゃあ、またあとで」
昼食を終えたティシフォーネは、喫茶店を出てから二人の同僚と別れ、一人商店街へと消えた。
メガエラに頼まれた(強制された)所用を済ませるためである。
「なんだ、予約の本を一冊受け取るだけ、か。
このくらい、自分でやりなさいよね……」
食事というワンテンポを置いても、理不尽な暴力への怒りは収まらないようで、彼女にしては珍しい独り言の山を築きながら、ティシフォーネは指定された書店へと向かった。
その大型書店はメガエラだけでなく、アレクトの行きつけでもある。アレクトはこの書店で、新書をのべつ幕なしにダウンロード購入して、携帯端末で家で読み漁るか、もしくはこの書店でひたすら立ち読みしていることが多い。
自分がアレクトを外に連れ出したはずのティシフォーネが、この書店で、放っておくと永遠に終わりのこないアレクトの立ち読みに付き合わされることも珍しくない。
読書は人並みにしかしないティシフォーネにとっては、書店や図書館に腰を据えてまで活字を友とする生活は、理解は出来ても共感はできない感性の一つだった。
もっとも、これまた豊富な読書量を誇るメガエラにとっては、ティシフォーネの感性など関係なく、いまは指定の本を一冊もって帰ってくれればそれで満足だった。
それは人間の生理学に関する内容の本のようだが、タイトルを見ただけでは、ティシフォーネには内容がさっぱりわからない。このあたりの微妙な悔しさも、彼女の不機嫌のひとかけらであったかもしれない。
次の角を曲がると、その書店は見える。賑やかな商店街だが、この書店はその中でも特に賑やかで、レジの前には常に人の列ができている。
ティシフォーネは、人間が集まる場所特有の猥雑な空気は嫌いではなく、列に並ぶのも苦にはならない性質である。
予約の本であるから、カウンターで尋ねてお金を払えば、それでこの「お遣い」も終わるだろう。考えてみればそれだけの話なのだが、とにかく終わらせないことにはオフィスにも帰れない。
手早く「お遣い」を終わらせることだけを考えて、ティシフォーネが角を曲がろうとした、次の瞬間だった。
「!?」
ティシフォーネの背骨に、これまで味わったことがないような強烈な「痺れ」が走った。あまりに強烈なショックだったせいか、首が自然に上を向き、背中が自分の意思に反して仰け反った。
わずか半瞬、その不自然な姿勢で細かく痙攣したあと、ティシフォーネは道路に倒れこんだ。
咄嗟に、自分に何が起きたのか理解しかねた。ティシフォーネの最後の記憶。薄れゆく意識と視界の片隅に、男性のものと思われるスラックスと革靴の一部。
そして、
「なんだ、こんなに簡単にいくなら、そんなに悩むことはなかったのかな、ベアトリス……」
という、男性の音声だった。
「ティスが帰っていない?」
メガエラがその報告を受けたのは、午後の業務が始まって一時間が経過したときである。テシフォーネの上司に当たる情報統括部長ギドが、メガエラのもとを訪ねたのだ。
ティシフォーネは時間には正確で、誰かに待たされることも、誰かを待たせることも嫌いだった。その彼女が、何の連絡もなしに一時間も遅刻してくるなど、まず考えられないことだった。
ティシフォーネがなんらかのトラブルで連絡できない状態にあるか、もしくはそういう状態を周囲から強制されているのか、考えられる可能性は、そう多くない。
「あなたがティスに、なにか頼み事をしていたという報告を受けています。ティスの行動について、考えられる可能性は?」
ギド部長の言葉は不躾ではなかったが、言葉の端々に、メガエラに対するわずかな、だが微妙な感情が現れている。
メガエラはそれには気づいたがなにも言わず、手で口元を覆った。
「そうね、私はティスにある本を買ってきて欲しいと頼んだわ。
ティスがトラブルに巻き込まれたとするなら、ティスが昼食をとったという店からその書店までの間がもっとも怪しいわね」
メガエラの言葉を受けて、すぐさま情報統括部のチームが、その周辺の捜索を開始した。
ギドとメガエラの表情の深刻さが増す。いつもなら神がかり的な能力で捜索をするほうのティシフォーネを、捜索に関しては圧倒的に効率の劣る者たちが探さなければならない。
「ティスのピースキーパーは作動しているの?」
メガエラが思い出したように言った。
情報統括部を含め、「復讐の女神」を構成する者たちは、常にその脳波を感知するナノマシンを脳内に移植されている。組織の情報が外部に漏れないようにするための措置のひとつであるが、使用目的を変えて使われることもあった。
つまり、局員の正確な位置を特定するための使用である。
しかし現在、この作業を主に行っているのも、ティシフォーネであった。
「ピースキーパーは作動しているはずだが、そこから追跡をしようとすると、
ギド部長が、怒りと苛立ちと溜息とを、同時に吐き出した。
ティシフォーネ専用の拡張システムとして開発された
既に彼女以外による繊細、かつ大規模な使用を受け付けない状態になっており、もはや第二煉獄はティシフォーネを構成する人体の一部と言ってよかった。
「そこから追うのは無理か……」
メガエラが珍しく下唇をかむような仕草をして、腕を組んだ。
(もしもティスが誘拐されたとして、その目的は何?
可能性はキリがない。でも一つ一つ潰していかなければ答えには辿りつけない)
その可能性の膨大さに途方にくれながらも、とりあえずは何かをしなければならない。
ティシフォーネの昼食のルートを洗い出し、地道にいくしかない。司法当局のような地味な手法は、「
だが、この情報統括部の設立の目的は、ティシフォーネのケアではなく、むしろその地道な捜査なのである。むしろ本道に帰ったというべきで、ここは腕の見せ所であろう。
メガエラが忙しく表情を入れ替え、忙しく歩き回っているとき、まったく表情を変えずにいる人物がいた。
眉を動かすこともせず、背を壁からはがそうともしない。ただ無表情でぼんやりと壁にもたれかかっていた。
そのアレクトが、突然、動いた。周囲が騒然としているので気づいたのは少数の人間だったが。
突然、愛用のザックを背負い出て行こうとするアレクトに、メガエラが背中から声をかける。
「どこへ行くの、アレクト。あんたにも手伝ってもらわないと……」
ティシフォーネにとって、アレクトは貴重な友人の一人である。アレクトのほうがどう思っているのかはやや不分明だが、ティシフォーネのことを理解している人間の一人ではあろう。
ティシフォーネの捜索には、もっとも動いてもらわなければならないのだが……。
だが、アレクトは焦るメガエラの言葉を無視して、背中越しに一言だけつぶやいた。
「お前たちは機械の鼻で探せば良い。私は私で探す。