第一話@

 

時刻は午後二時を過ぎたころだろうか、街の中心部から続く大通りを、網の目のように走る小路地である。

「はぁ……、はぁ……、はぁ……」

 青年は走っていた。限界を超えた心肺機能を気遣うように胸を押さえ、彼は走り続ける。

 元々は端正な、いかにも女性に好かれそうな顔立ちではある。だが、疲労と驚愕、恐怖と焦燥がないまぜになった表情で走る今の彼の表情には、その面影はカケラ一つ分ほどしか残っていない。

 もちろん、彼がそこまで追い詰められるには、重大すぎる原因と理由がある。

 彼は追われていた。およそ、この国に生きる者ならば知らぬものはいない、最悪の存在に。

「くっ……」

 彼は、追い詰められた。知らぬ道を逃げに逃げ、行き着いた先は、薄暗い路地裏だった。

 物質文明を極め、夜を昼に変えるほどの光を放つこの都市でも、まだこのように光の入らぬ場所はあるのである。

 青年は、汚れた壁に背中を預け、振り返る。瞬間、すでに限界を超えていたと思われた彼の心臓は、もう一段、高く飛び跳ねた。青年の目と口が、一回り大きく開かれた。

 そこには、彼を追い続け、まいたと思っていた存在が、平然と立っていた。青年を拿捕すべく、かなりの距離を走っているはずなのに、体内を心臓が跳ね回っている青年と違い、あまりにも静かに、「それ」はそこに佇立していた。

 青年が視界に収めた「それ」は、見違いようも無く、小柄な少女の姿をしていた。青年よりも頭ひとつほど小さく見えることを考えれば、身長は一五〇センチを少々超える程度であろう。

 薄暗い視界にあって、浮き上がるかのような金褐色のショートカットと、やや吊り気味の真紅の瞳が、追い詰められた青年の意識野に強制的に刷り込まれる。

 その容姿は、十人に聞けばまず八人は美しいと答えるだろう。その体格は小さいなりに見事にバランスがとれ、少女を構成するパーツは、各部が自己主張しながらも、素晴らしい均整を保っている。

 だがその八人も、「美しい」と答える前に、一瞬、コンマ数秒の間をおくに違いない。それは、少女の持つ美しさが、山野の風景を飾る花の清々しいそれではなく、まるで鍛え上げられたサーベルのような清廉さを連想させるものであるからである。

 そして、その連想を自分から誘導するかのごとく、少女は動きにくそうなロング・コートに身を包み、その両手には、その小柄な体格に如何にもつりあわぬ、禍々しい形状の一対二本の剣を握っていた。

 青年はがちがちと身体を震えさせながらも、懐から銃を取り出す。逃げることはもはや不可能だった。銃を握ったのも、抵抗することよりも、心身を落ち着けることを第一に考えたからである。

 ……その効果は、限りなくゼロに近かったが。

「アミルカーレ・フィルロだな」

 静かに低い声で、少女が口を開く。その若々しい美しさに似合った凛とした声であったが、温かみというものを完璧に欠いていた。確認という以外の意味を全く持たない、冷たい言葉だった。

「聞いてくれ、やむを得なかったんだ!」

 青年は、確認に答えようとはせず、震える言葉と腕をなんとか制御下において、銃口を少女に向ける。

「私があそこで父を殺さなければ、妹は確実に父に犯された挙句、今日こそ殺されていたんだ! 私も妹も、父に虐待されていた。それを止める手段は一つしかなかった!」

「知らんな」

 少女は完全に無表情のまま、ゆっくりと手にした剣を青年に向ける。会話そのものが成立していなかった。

「貴様は、この国で最も重い罪を犯した、それ故に裁かれる。事実はその一点のみ」

「くっ……」

 青年は焦り、震える腕で見当違いの方向に一発、発砲した。乾いた銃声が、周囲の乾いた空気に木霊する。

 だが、眼前の少女に、少しの変化も現れなかった。

 少女は表情を変えぬまま、「死」という衣を纏い、一歩一歩、青年に近づいてくる。

 青年の持つ武器は銃であり、少女の持つ武器は剣である。まだ一定の距離があることを考えれば、どちらが有利なのかは、言わずもがなである。

 だが、当の青年に、自分が有利であるとの心象は一切無かった。少女の影は死神の姿そのものであり、その足音は死者の誘いだった。極度の恐慌状態にあって、青年は既に、自分を追い詰めているのが如何なる者なのか、確認しようという行動意欲すら持ち得なかった。

 それでも青年は、抗弁を試みる。それはすでに、少ない生還の可能性に賭けたというよりも、これより与えられようとする理不尽な自分の死への足掻きだった。

「なぜだ! なぜ父の非道が裁かれず、妹の命を救おうとした私のみが、お前たちに裁かれねばならんのだ!」

 それを聞いても、少女の表情には塵ほどの変化も現れない。

「ならば、貴様か妹御が、父親に殺されでもすればよかったのではないか。そうすれば、貴様の父親は、少なくとも私たちに裁かれたであろうよ」

「わかった口を聞くな! この国の法は、民のものに非ず!」

 それは、例えば民主化運動のデモの場でなら、同胞を鼓舞する最高の叫びとなったであろうが、この場では、何の効果も齎さなかった。

 もともと活動限界を超えて疲労していた肉体に、極度の興奮を加えてしまったためか、青年は多量の汗と涙を無意識に零しながら叫ぶ。

 だが、その様子も、対峙する少女にとっては、冷笑の対象でしかなかったようである。少女は、初めて表情に変化を加えた。口の端で、笑って見せたのだ。

「そういうことは、あそこの住人に言えばいいさ。ガイア・システムズなどと、自らを僭称する者たちにね。聞き入れるかどうかは極めて疑わしいが」

 言って、少女は一瞬だけ背中に視線を向けた。光溢れる都市中心街のそこには、他の建築物の多くを圧する、荘厳な建造物が存在する。それは、この国の政治の中枢たる場所だった。

 少女は青年に向けて歩を早めた。

「私はただ、法に則のっとり、罪を犯した貴様に死を与え、過ちを正すのみ」

「ヒッ……!」

 少女の冷徹な存在感に当てられてしまったのか、青年の思考力が弾けた。

 彼は、銃口を定めぬままに、少女に向けて続けざまに発砲する。殆どが見当違いの方向に飛んでいったものの、一発が少女の顔面を捉えた。……かに、見えた。

 青年は、その驚愕で、自らの精神を極底に叩き落した。少女は、明らかに「弾丸を見てから」、瞬時に横に移動し、弾を避けたのだ。弾丸は少女の残像を貫通し、空に消えた。旧式とは言え、初速が音速を軽く超える電磁投射銃レール・ガンの弾丸を、少女は避けたのである。

 青年が驚愕した一瞬の隙に、両者の距離は殆どなくなっていた。

軽火器そんなものでは、私は討てぬよ」

 少女が、青年の耳元でそう呟いた時、青年の自意識はすでにこの世に存在しなかった。

 少女の漆黒の剣が、吸い込まれるように青年の首を、正確に貫いていたのだ。

 青年の体が数度にわたり痙攣を起こし、その手がぶらりと下がった。青年が一抹の希望をかけた銃が、その終わりを告げるように路上に落ちる。背後の壁にまで達した少女の剣に、青年の体重がかかった。少女にとってみれば、それは大した重量ではなかった。

 青年は、自分が助けた妹の笑顔を、もう一度見たかった。適うことなら、彼女を陵辱した父のことなど忘れさせて、その小さくとも幸せな未来を祝福してやりたかった。

 だが、彼が死後の世界へ持っていったのは、耳にこびりついた、自分が殺した父親の断末魔の悲鳴と、目にこびりついた、妹の恐怖に引きつった顔だった。

 青年から全てを奪い去った少女は、剣を引き抜くと、一切表情を変えることなく、携帯用のコンピュータ端末を取り出し、何者かと会話を始める。

 少女が行うべきことは、全て終了した。あとは他人の仕事だった。少女は青年の遺体に一顧だにすることなく、その場を立ち去った。